うとしたけれど、こうしているうちに、もうわしのからだがいけなくなった。今生の怨みはこのことだ。せめて御身達わしの心を汲んで上人の恩免のことをよくよくお取り計らいなさるように」といわれたから、光親卿は涙ながらにそのことを承知して、御安心なさいというているうちに四月五日臨終正念にして、念仏数十遍禅定に入るが如く月輪殿で往生を遂げられた。行年五十八歳であった。かくてこの師弟は遂に死期に会うことが出来ないで、離れ離れに生別死別という悲しいうき目を見せられて了った。
このことを配所にあって聞いた法然の[#「法然の」は底本では「法念の」]心の中推し計るばかりであった。
法然が、配流のこと遠近に聞えたうちに、武蔵国の住人津戸三郎為守は深くこれを歎いて、武蔵の国から遙々《はるばる》讃岐の国まで手紙を差出したが、法然はそれに返事を書いて、
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「七月十四日の御消息。八月二十一日に見候ぬ。はるかのさかいに。かように仰せられて候。御こころざし。申つくすべからず候。……」
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と書いて今生の思い知るべきことと、往生の頼むべきことを痛切に書いている。
直聖房という僧は矢張り法然のお弟子となって念仏の行をしていたが、熊野山へまいっている間に法然が流されるという話を聞いて急いでその跡を追おうとしたが俄に重病に罹《かか》ってうごけなくなった。権現に祈ると、「死期はもう近づいている。お前は安らかに往生するがよい。法然上人は勢至菩薩の生れかわりだからお前はそう心配することはない」というおつげがあったから安心して往生を遂げたということである。
法然はこの国にあって化道《けどう》の傍ら国中の霊地を巡礼して歩いたが、そのうち善通寺にも詣でた。この寺は弘法大師が父の為に建てられた寺であるが、その寺の記文の中に、「ひとたびももうでなん人は。かならず一仏浄土のともたるべし」とあるのを見て、この度の思い出はこのことであるといって喜んだ。
三十六
藤中納言光親卿は、月輪殿の最後の頼みによって様々に、法然上人恩免の運動をして見たけれども、叡慮お許しがなかった。しかし上皇が或る夢を御覧になったことがあり、中山相国(頼実)もさまざまに歎いて門弟のあやまちをもって咎を師範に及ぼすことの計り難いことをおいさめ申すことなどもあって、遂に最勝四天王院供養の折大
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