《もら》えば思い置くことはない」といって、正直に感動をしているが、或る技術学校の教師をしていた人だの、東京の下町で然るべき炭薪屋をしながら社大党に属して日頃注意を受けていた人だの、そういう人はかなり立入って自己批判をした、然し、斯《こ》ういう本当の土着の農民もインテリ性を帯びた都会からの帰還入営者も、何等の不平なく国の為に殉じて行くその従順な姿を見ると、日本国民は全く世界無類の忠良な国民だと涙を呑まざるを得なかった。
 それと同時に、斯ういう忠良無比なる国民、妻もあり子もあり、世帯もあり分別もあるこの国の中堅の良民を召集して「好鉄ハ釘トナラズ、好漢ハ兵ニ当ラズ」という伝統の支那兵の鉄砲の前へ肉弾に送ることに於て、当路の責任者は最も深刻にこの国と人を誤らせてはならないという感じを弥之助は犇々《ひしひし》と胸に焼きつけられた。
 あれからもう三カ月目になる、あの人達は北支か上海かどちらか知らない、今頃はどうなっているか。

       五

 百姓弥之助が、どうしてこの武蔵野の殖民地に住んでいるかということを一通り書いて見ると、彼は今年もう五十二歳になったのである、生れは矢張りこの村の一部で、幼少時代はさのみ貧乏というわけではない、まず中農階級の上等の方にいたものであるが、彼の父が失敗続きで非常なる苦境に陥ってその中で七人の兄弟と共に育ったものだから、云うに云われない生活の苦しみを味っている。
 だが、弥之助は少年時代から読書が好きでどうかして東京へ出たいと思った、十四の時やっと小学校を終えると無理矢理に東京へ出て、それから有《あら》ゆる苦しみをしてとうとうそれ以上の学校へは入ることが出来なかったが、そのうち独力で或る一つの発明をして、それが世間に喧伝されその発明が世界的の発明であるというような意味から彼自身もパテントによって相当の産をなして今はその郷里のこの新館に来ている、まだ隠居という年ではないし、東京にも相当の根拠地を持ってはいるけれども目下の処は斯うして植民地に来ていることが多い。
 植民地というのは、かりにそう名づけたこの土地の事で、従来父から僅かばかり残されていた地所があって、それを買い足して全体では三四千坪になっている。ここ七八年来、そのうちの一部にいろいろの建物を十棟ばかり建てて、その他は耕地に使用されている、小作に貸してあるのではない。
 弥之助は感ずるところあって、万事農から出直さなければならないという観念の下に今これだけの地所と別に一町歩あまりの山林とを基礎として小農業の経営を試みてから、これでまだ二年目である。
 弥之助はガラス窓を閉めて三階から降りると、もうあたりは黄昏《たそがれ》の色が流れていた。それから本館を出て赤塗の古風な門をくぐって、農舎の方へ行って見ると、そこで自家用の木炭製造の炭竈《すみがま》が調子よく煙を吐いていた。
 やがて冬が来る、武蔵野の冬の空《から》ッ風は寒い。殊にここは植民地で吹きさらしだ。家にいる青年達にも防寒の用意をさせなければならない、そもそもこの植民地同様のところから出立して、一つ出来るだけ自給自足で行って見ての上の話である。自給自足が最後のものではないけれども、自給自足から出立というのが彼のこの植民地の要《かなめ》となっている。
 そこで、燃料の自給ということから木炭の自家用供給を試みた、試作の順序は良好で、土落ちの加減も煙吸きの調子も甚だ悪くない。だが、かんじんの中味の炭の出来栄《できば》えが、どういうものかそれは二三日たって見ないとわからない。

       六

 普通木炭を焼くには一定の炭竈を築いてする一定の方法がある、が、弥之助がはじめたのはそういう本格的のやり方でなく、軽便実用を主とした即成式のものであった。
 この春、弥之助はその地方の農林学校を訪れて教師が校庭で速成炭焼を試験しているのを見て、仔細にその仕方を尋ねて来た、というのはこの地方では不相変《あいかわらず》囲炉裡《いろり》で焚火《たきび》をやっているが、それは燃料の経済からいっても、住居の構造と衛生からいっても損するところが多いものだ、それに薪《まき》の材料も年々不足して来るし、そうかといって、農家の力では木炭を買って使いきれない。
 ところがここに桑の木というものがある。養蚕《ようさん》の事が近来、めっきり衰えて桑園を作畑に復旧する数も少なくない。新百姓としての弥之助は、附近の桑園を買い取って、これを耕地にする為に何千本もの桑の株を掘り返して持っている、この桑の株は大抵七八年の歳月を経ているが、枝を刈り取り刈り取りするものだから、丈《た》けは僅か二三尺に過ぎない、が年功は相当に経ているだけに、薪にすると火持がよい、併し、これを炭に焼けば一層結構なものになると、かねがねそれを心掛けていたが、最近の農業雑誌を見ると、その方法が書いてある、よって、塾の青年に、その事を云いつけて置いたところへ、農林の生徒がやって来て、昨日、それを実行した。
 先ず、幅三尺、長さ二間ばかりの薬研式の浅い穴を掘って、それに藁《わら》を敷き込み、その上へ上へと桑材を山盛りにして、隙間へは藁を詰め込んで上面一帯に土を盛りかぶせ、一方の口から火を焚きつけて、団扇《うちわ》やとうみで盛んに煽《あお》った、斯くて一昼夜ほどすると、一方の風入口が火を吹き出した時分に、それを塞いで蒸す、という段取りである。
 どうやら調子よく行っている、この分なら相当の炭が得られそうな気持がする、消炭に毛が生えた程度でも我慢する、相当立派なものが出来れば、この冬は炭を買わないで間に合う、併せて、この方法を附近の農家に流行《はや》らせてもいい。
 それを見届けた上で弥之助は、豚舎と鶏舎を見廻った。豚は四頭飼っている、鶏は十羽いる、豚の発育は皆上等と云って宜《よろ》しい、食物の食いっぷりが極めて良《よろ》しい、豚というやつは食う事の為にだけ生きているとしか思われない、食う事の為に生きて、食われる事の為に死ぬ。彼に於ては生も死も本望かも知れない、最初に経営を任せたある坊さんが施設した豚飼養の計画は農家経済として間違った着眼ではない、収益率の極めて乏しい農家の副業として豚の飼養は相当有利なものである。この頃聞くと、つぶし豚に売って、一貫目一円九十五銭――までになったそうだ、約二円である、で、一頭の豚をこの辺では二十貫程度にして売り出す、少し丹精すれば三十貫にはなるから、五頭も飼うと有力な一家経済の足しにはなる。
 鶏もこの頃漸く卵を産みはじめた。少なくも資本だけは取り上げなければならない、と百姓弥之助は考えた、百姓弥之助の農業はまだ投資時代だが、やり出した以上はお道楽であってはならない、美的百姓だけで甘んじていてはならない、早く独立自給だけにして見なければ冥利《みょうり》にそむくと弥之助は考えている。

       七

 弥之助は、健康の転換の為に熱海の温泉へ出掛けた、弥之助の少年時代は仲々健康児の方で、手首等は自分の指で握りきれない太さを持って居たが、東京へ出て苦学と云う事をしたり家庭を背負って生活戦線に疲れたりしたものだから、甚だしく健康をそこねて二十歳前後一時は絶望とまで思われたのに、努力によって三十歳の後半からまた健康を取り直し今では二十貫の体量になっているが、いずれにしても一度きずついた体であるから自重する念が深い、そこで冬はなるべく温い土地で暮したいと思うがまだ別荘を持つまでに至らない、熱海と云う所は昔から好きな所であった、今から三十年ばかり前に逗留保養したことまである温泉だが、大震災以後土地の気分がこわれた上に鉄道が開通し自動車の世の中になってからは町全体が昔の様な潤《うるお》いが欠けてしまった感じがする。
 しかし避寒を兼ねての東京へ一番近い養生地と云えばこの地に越した所はないので弥之助は冬はしばしば此処《ここ》へやって来る。
 今日もまた海岸の中流処の宿屋に陣取って二日ばかり保養した、海岸は波の音がよもすがらやかましいけれど、此所《ここ》には「河原の湯」と云う名湯がある、弥之助はこの湯が好きなので宿の内湯等は二の次にして此所であたたまる事を楽しんで居た、河原の湯は昔とは違って改造され、一浴五銭ずつ取って大きな共同風呂になって居る、その熱度と新鮮味とが他の何所の湯よりも肌に爽《さわやか》である。
 弥之助は此所で二日ばかり保養した後、東京へ取って返した。枝付きの蜜柑《みかん》を買い込んで土産《みやげ》とし、三等客として空席の一つを占めたが向合いに黒いとんび外套《がいとう》を着た相当品格のあるお爺《じい》さんが一人居た、汽車が小田原を過ぎた時分にこのお爺さんは首を伸ばして、
「小田原城はどの辺になりますか」
と弥之助に向って尋ねた。
 窓の左の方をながめた弥之助が、
「あの黒い森のあたりが一帯にそうです」
 老人がそれを眺めて、
「仲々広いものですな」
 弥之助がまたそれに調子を合せて、
「仲々広いです、しかし北条氏時代の小田原城はまだまだ何倍も広かったでしょう、なんしろあの中へ北条氏が関八州の強者《つわもの》八万騎を入れて八カ月を持ちこたえ、太閤が天下の兵二十万を以てこれを囲んだと云うのですから、徳川氏になってからの小田原城とは規模がちがいましょう」
と弥之助はやや啓蒙的に説明を試みると老人は予想以上に歴史に理解があって次の様に答えた。
「そうです、小田原勢もえらかったが太閤の軍略も素晴らしい、太閤と云う人は戦《いくさ》も上手だったが、軍略にかけてはさすがに日本一でした、小田原城にしてもああして大軍は動かしたけれども殆ど兵は殺していないです、無理な力攻めは決してしない人でした、或る点まで戦をしてそれからは軍略で大勢を制して大局の勝を取ると云う事にかけては全く古今独歩の英雄でしたねえ」
 弥之助はこの老人の理解に尊敬の念を起して彼の対話もまたはずんで来た。
「その通りです、戦をさせたら家康の方に強味があるにしてからが、やっぱり最後にはあれを包容してしまいました、なるべく兵をいためずに大局を制すると云う点はえらいものですよ、あすこが武田でも上杉でも誰でも及ばないところです、天下を取るのは力ずくだけでは駄目です、略でいかなければ」
 老人もまた弥之助の言葉にぴったりと意気が合うので、
「ところが欧羅巴《ヨーロッパ》の大戦争をはじめ近頃の戦争と云うものは……」
 老人は近代戦争の兵器と人間との全面的衝突の恐るべき事を説いて「戦争に軍略と云うものがなくなった」と云う事を非道《ひど》く慨歎して居た。
 それから二人の会話が何時しか西郷と勝の江戸城ゆずり渡しの事に及んで来た。
 考えて見ると、西郷も勝も偉かったものだ、維新の開幕は必ずしも二人だけがうった大芝居ではない、内外の情勢殊に英国公使あたりのにらみも大分きいて居たと云う事だが、然し何と云ってもあの場は二人の舞台である、もしかりにあの二人の大芝居がうちきれないで江戸の城下が火になると云う事になれば、東北の強みはぐんと増して来る、それから所在佐幕に同情を持つ諸藩の向背ががらりと変って来る、日本がまた元亀、天正以前の状態になる、幸に新政府が成立したからと云って、その政治の奔命に疲らされて革新の精力などは消磨されてしまう、そこへ外国の勢力が割込むと云う様な事になった日には維新の事業どころではない、国そのものが半属国のような運命に落込まないとは限らない、西郷と勝の二人ばかりが千両役者ではない、明治の維新と云うものは有ゆる方面の力によって達成されたには相違ないけれども、人物が、少くともあの場合この二人の立役者が人命を救い国の運命を救った、エライ人物が出ると云うことは或意味では国の不祥と云えるかも知れない、然し人物が無い為に国を誤るの不祥はそれより以上の不幸と云わなければならない。ドイツにヒットラーが出たりイタリーにムッソリーニが出たりして乱れた国家を統制しこれを活躍せしむる外観はすばらしいが、ああ云う人物を生み、ああまでしなければ立ち行かなくしたヨーロッパ大戦以来の惨憺たる不幸を見れば、い
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