カン一挺《いっちょう》三円以上もして然もあんまり工合がよくなかった事を覚えて居る、このバリカンというやつにも当りはずれが相当にある、そこで今度もどうかと思いながら、隣村へ買わせにやった処、一円三十銭ばかりで一挺買って来た、それを使わせて見ると案外の好調子でその後半年の間に何十頭も刈ったが更にひるまない、このところバリカン大当りである。

       十八

 日支の事変が初まってから当然物価は騰《あが》り初めた、然し暴利取締りが相当行届いてるせいか、その割に暴騰までには立到って居ない、特に農産物等はほとんど価格の値上りを見ない、都会の台所では相当に騰って居るかも知れないが、農村の収入としてはほとんどひびいて来ない、ところが、俄然《がぜん》として弥之助の耳元にひびいて来たのは人間の価上りであった。昨年百五十円程度の作男の給料が二百五十円以上にまで飛び上ってしまった、それから昨年四十円の仕込盛りの小供が今年は九十円で他に口があるからと申込んで来た。男の方が約七割、小供の方が十二割以上の価上りである。こういう相場は誰が立てるのか知れないが兎に角それが共通した相場になって居て、それでも新たに頼み出しというのがほとんどない、人間の不足という事が覿面《てきめん》にここへひびいて来た。兎に角支那へ向けて大量の人間が進出して居るその影響がこうも現金にむくって来たのである。これは実に日本の農村の古来未だ曾《かつ》てなかった一大事件であるのみならず、壮丁の支那進出は、この分ではいよいよ多くなろうとも減ずる気づかいはない、今後労力の不足はいよいよはげしくなるに相違ない、そうかと云って労力の暴騰に準じて一俵十円の小麦が十五円になるという様な訳には行かない、この農村労力問題を如何《どう》するか、共同経営の新方法で行くか、機械化電化の促進で行くか、いずれ農村労力の革命が行われねばならぬ事を弥之助は感じた。今迄人口過剰に苦しんで居た日本内地がやがて人力飢饉に落ちて行く形勢がありありと解るような気持がした。
 殊に百姓弥之助の植民地は○○(伏字)飛行場の飛行機の散歩区域である。軍需品の工場が、その飛行場からこちらへ向けて、ドシドシと立て増されて行く、今迄農業に働いていた青年をはじめ、女子供に至るまで、ドンドンとその方に吸収されて行くから、この農村労力の移動がハッキリして来る。
 年々七八十万の人口が殖えて日本は人口が多過ぎるという感じはやがてドコかへ消えて行って、その後に人間飢饉の大波が寄せて来るような感じ、今や、日本の人口が一億に達したとはいうものの、四億以上の人口を有する国を向うに廻して長期の戦争をしなければならないとすれば、この分では人間はいくらあっても足りない、金より物ということが、一時行われたが、それが物より人ということになりつつあるのではないか、今、農業に働いている壮丁は、いつ徴集されるか知れない、そうなると一人前に足りない子供の労力というものが、一人前以上に要求される時期が来たというものかも知れぬ。

       十九

 百姓弥之助が植民地へ戻ると二ツの欠食児童が待って居る。
 欠食児童とは猫の子である、この植民地へはまぐれ猫、のら猫がよくやって来る。まぐれ猫については曾て次のような一文を書いた事がある。

[#ここから1字下げ]

    野良猫

 夏のうち耕書堂の居間を開け放しにして置くと、よく野良猫に襲われる。食事半ばで肴《さかな》をかすめられたりすること屡々《しばしば》である。或時の如きは、日本橋からくさや[#「くさや」に傍点]の干物、鱈《たら》の切身というようなもの一包を買い込んで、大袋の中へ投げ込み、たしかに持参した筈《はず》のがない、東京へ置き忘れて来た筈はないのに幾ら探してもない。
 気がついて見ると、それは包みごと野良猫めにしてやられたのだ――どうも憎い奴だ、見つけ次第一つこらしめてやらなければならないと思っていた。
 秋になって、或晩戸を締め切ってしまうと、縁側の隅でニャーニャーと猫が鳴く、閉めこまれたな、よし、とっ捕えてやろうと立って障子を明けて見ると、隅っこに鳴きながらおびえているのは、逞《たく》ましい野良猫と思いの外、まだほんの小猫であった、少々案外の思いをして、よし/\此奴なら痛しめるほどのことはないと、有り合わせた肴の屑《くず》をとって投げ与えると、恐る恐る近寄って来て、それにかじりついた、それから、鰹節《かつおぶし》をけずりこんでボール紙の上に飯を少し盛って与えると、恐る恐る近寄って来たが、それにかぶりついたと見ると、食うこと食うこと、すさまじい勢で貪《むさぼ》り食いはじめて瞬《またた》く間に平げてしまった、それから今度は、少し大きいボール紙にもう一度飯を盛って、また鰹節を奮発して与えると、それも見る見る
前へ 次へ
全28ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング