面も色紙も短冊もみんなごっちゃに、封を切ったのと切らないのと雑然と棚に積み上げられて居る。百姓弥之助はどこから手を附けていいかと戸惑いの形になったが、まあ大物は後まわしにして色紙短冊からとりかかろうと、それを炉辺に持ちおろした。
 それから筆まかせに書と絵とを書きまくるつもりであったが、書と絵とを同時につくるのはどうも気分がそぐわない、書の方は一気呵成にやれるけれども絵の方は相当の構図を組み立てた上でないとやれない、と云ったような呼吸から今日は書だけにして置いて絵は明日のことときめた。
 書は古人の名言や筆蹟のうちから求め、或は自分の旧作のうちから選んで色紙に書き、短冊には古人の名句や自作のものなどを都合三十枚ばかり書きなぐってしまった。百姓弥之助は書道の妙味はこころえて居るつもりだが筆をとってけいこした事は殆んどないから予想外出来のいいのもあるが、どうにも始末に困るのもある、然しけいこをしないだけに流儀にはまらない誰にもまねの出来ないまずさ[#「まずさ」に傍点]がある処が身上と云うものだ。
 そのうちに本館の方で振鈴が鳴る、式の準備が出来たのだ、そこで塾中で屠蘇を祝って万歳を唱えた。
 それから屋根裏の寝室に行って寝台の上で読書にふけった。
 今年の元日は比類なき好天気のうちに送り迎えをすませて早寝をした、門外へは一歩も出ないで一日を過した。
 二日目は前の如く食事が済んでから、やはり色紙短冊に向って絵を描き出した。絵は有合せの書物や雑誌を題材にしたスケッチで寅年《とらどし》にちなんだ張子《はりこ》の虎の絵が多かった。中々よく出来たのもある。例の欠食猫をモデルにしてブザマ千万な猫を描き上げてそのかたわらに次の様な賛をした。
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家猫の虎ともならであけの春
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 これは現状維持の鬱懐《うっかい》がふくまれて居る様である。もう少し積極的表現のものとして、
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家猫の虎とならんやあけの春
家猫の虎となるらんあけの春
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 何か時代に対する諷詠がありと云えばある様だ。
 そこへ塾に居るMと云う洋画家がやって来て一石やりましょうとの事だから直ちにそれに応じて碁盤《ごばん》を陽当りのよい縁側に持ち出させそこで悠々と碁をうち出した。暮のうちは百姓弥之助が少々うたれ気味であったが今日は六番戦って五番勝つと云う好成績である。
 年始状や年礼のしるしや名刺が本館の玄関のテーブルに置かれてある、今晩はこの部落の夜番に当ると云うので善平農士がそれをつとめる事にした。

       十四

 百姓弥之助はこの農業生活に入るにつれて服装の上で不便を感じ出した。それは弥之助の腹が中々大きくて普通の洋服では上と下が合わない、すきまから風が入るおそれがある、そうかと云って殊に日本風の私生活で背広服を朝から晩まで着づめにして居ると云うのもまずい、そこで大ていは和服を着て小倉の古袴をつけて居るが、この袴もまた腹部が出張って居る為に裾が引きずれがちで立居ふるまい殊に階子段登りなどには不便を極める。それからまたこの姿では机に向って事務をとって居た瞬間に畑へ飛び出して野菜を取って来ると云う様な場合に殊更不便を感ずるのである。そこで思いついたのが東北地方で着用して居る「もんぺ」のことである。あれを着用して見たら必ずこの不便から救われるに相違ない、そこで東京のデパートあたりを探させて見たが、出来合は見当らないようだとの事だから福島県の大島氏へ当ててその調製方を依頼したものだ。大島氏の家は福島県有数の事業家で弥之助の依頼したO氏は当主の弟さんに当る人で、白菜だけでも四百町歩から作ってその種子を全国的に供給して居る、弥之助は先年その農場に遊んで同氏の為に「菜王荘」の額面を揮毫《きごう》して上げた事がある、そこで早速同氏に当てて「モンペ」調製の依頼をすると直ちに快諾の返事が来た。
 その文面に依ると「モンペ」は福島地方でも用いない事はないがその本場は寧《むし》ろ山形、秋田の方面であると云わなければならぬ、然し御希望によって当地で然るべくとりはからって上げるからとの事であった。
 程なく同氏から鄭重な小包郵便を以て二着の「モンペ」が送られた、それに添えられた手紙には、当地織物会社の特産、ステーブルファイバーを以て仕立せさせた「モンペ」を送ると、モンペとしてはステーブルファイバーでは地方色の趣味が没却される点もあるが然し時節柄の意味に於て国産ステーブルファイバーを以て試製させて見た。別に地方色豊かなるものとしては会津地方から取寄せて送るという様な親切をきわめたものである。
 弥之助は大島氏の好意に感謝しつつ早速この国産ステーブルファイバーを着用に及んだ。ステーブルファイバーは一見したところモンペと
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