な料理店の、相当多数を味わった事もあるが、その店独得の品物や腕前は別として、野菜類などに至ると、どんな腕前を見せた料理でも、弥之助自身が畑から取って来て荒らかに、手鍋の中にぶち込んだ風味に及ぶものはない、それは海岸に於ける魚類に於ても云える事で、ピチピチと網にはねる魚をつかまえて来て直に鍋に入れるという風味は、都会のどんな料理店でもやれない。今日都会の料理店に来る材料は、来る前にもう死んで居るのである、如何に名人上手の庖丁でも死んだものを活かす訳には行かぬ。
昔江戸時代の料理が、非常に贅沢で高価であって、八百膳などでも茄子《なす》を鉢植のまま食膳に出し、客が鋏《はさみ》でそれをちぎって食うという、そうして茄子一個の値が一両とか二両とか云われて、涼しい顔をして、それを仕払ったというような話も、あながち悪趣味から来る、豪華の衒《てら》いというわけではなく、何か茄子そのものの味に、千金にも替え難き新鮮味が味わえたからではなかったか。
また別に初松魚《はつがつお》などを珍重して、借金を質に入れてまで馬鹿な金を出して、それを買って食うという様な気風も単に江戸ッ子としての見栄《みえ》から来て居るのではない、死んだ材料にばっかり慣らされて居た当時の都会中心人が、新鮮味に餓《う》えていた変態から出でたのかも知れない、そうしてもう一つは、江戸時代は今より土地の面積も鷹揚《おうよう》であったものだから、名ある料理店となると近い所に、自家の野菜園を持って居たり、堀の外がすぐ農家の畑であったりして、今よりはずっと生きた材料が使えた為に、繁華なお店の台所に腐っていた町人の味覚が飛びつくように新物に随喜した所以《ゆえん》ではないかとも思われる。
果物についても同じ様な事が云える。近来の果物は出来た果物では無く、こしらえた果物である。スポーツでこしらえた肉体のように豊かには見えるが、引き締まった味というものが無い。弥之助の青年時代には林檎などは高級の果物の方で、書生でこれを食うのは奢《おご》りの方であったが、近ごろは、有ゆる果物が進歩した栽培法によって一般国民の間に多量豊富に供給されるに拘《かかわ》らず、本当に旨《うま》いと思う果物を食べたことが無い。
底本:「中里介山全集第十九巻」筑摩書房
1972(昭和47)年1月30日発行
底本の親本:「百姓弥之助の話 第一冊 植民地の巻」隣人之友社
1938(昭和13)年4月発行
※「漏れ承る所によると 天皇陛下に」および「この人は毎年麦を 天皇陛下に」の空白は底本のままです。
※「殖民地」と「植民地」、「碾割」と「引割」、「独占」と「独専」の混在は底本通りにしました。
入力:遠藤勇一(隣人館)
校正:多羅尾伴内
2005年1月7日作成
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