れて出征した人もあり戦死者もあります、美術出身でもう十五名は召集されて居りますが、その内五名は戦死と云うことが解りました。僕の親友であったSと云う青年が、校中の人望家でもあったし人物も立派で気象も秀《すぐ》れて居て柔道も三段でありましたが、上海でとうとうやられてしまいました、しかもその男は同郷の資産家の一ツブ種です、僕の様な次男坊でどうでもいい人間は無事健在でああ云う人間がやられるのだから感慨に堪えません」
と小山青年が云った。弥之助はそれを聞いて、
「うーん」
と口を結んだ、いま、日本の内地へは爆弾一つ落っこちて来るのではない、実感的に何等驚破される非常時現象が眼の前に展開されている訳ではない、こうして平和そのものの秋の夕ぐれの武蔵野の中を走る電車は明朗な青年たちで張り切って居る、然し彼等とても全く米の価を知らずに、ただ食いただ肥って居るだけではない、美校出身だけでも十五、六、七名の出征者のうちに死者五名と云う事であれば少なくとも三分の一が死んで居るのである。
 肉弾、肉弾、全国を通じての肉弾の貴重すべき犠牲は外で戦われて居るから内なる人の日本人の実感にこたえる事が甚だすくないのではないか。日本現在を斯くも安らかにしているのは、皆、外に戦っている肉弾のお蔭である。

       九

 弥之助は植民地から東京へ往復するに国産小型自動車を用いて居る。
 自動車では相当に苦労したものである、あえて贅沢《ぜいたく》のために自動車を欲しがるものではない、自分の健康上と業務の上との両方面から経済的にこれを利用し度いとの希望の為に、二台まで中古自動車を買ったが、皆失敗した。
 その一つはダッチブラザーの古物であったがこれは旧式ではあるが中々機械の質がよく少々利用して東海道、東山道など突破した事もあるが、長く続かなかった、部分品や修繕に中々金がかかるのと正式運転手を一人やとい入れるのとではかなりの大負担になる、そこで世話をした自動車屋が、営業上に籍を置いて呉れて必要の時だけ乗りまわす事にしたが、万事につけて出費が多くてものにならなかった。
 そのうちに一人の青年が来て私立大学に通う学資を得る為に運転手をし度《た》い、幸い、自分は免許状を持って居ると云う事を申出て来たからその話に乗り込んで中古のシボレー一台を買い込み、営業用に登録し必要の時はこちらが乗ると云う事に約束をきめてか
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