馴れていたのに、それと聞いてやや意外の思いをしたが、本来東照宮はこの喜多院の中の一つの存在であったのを、神仏混淆がやかましくなって以来の分離なのだから、喜多院所蔵と覚えていてもさして無理はない。
 それからここを立ち出でて東照宮の方へ行く途中天海大僧正お手植の槙、

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樹高――七十一尺、周囲――九尺七寸、樹齢――二百七十五年
寛永十六年本院再築の時植付
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 とある、この位の槙の大木は関東では珍しいものに属する。
 それからまた人皇九十三代後伏見帝正安二年造と称する国宝の梵鐘がある、それからまた本堂の一間に宋版の大蔵経がある、これは山門の方に別に経蔵があって保存していたのだが、改築か虫干かの必要上こちらへ移入してある間に乞食が経蔵の空屋に入って焚火をしたのが原《もと》で先年経蔵が焼けてしまったが偶然中味だけがここに残されたということだ。
 それから空濠の上の小山を辿って行くと、巨大な石塔がある。

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南无慈眼大師 〈寛永二十之天十月二日寂〉
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 と彫んである、即ち天海大僧正の墓だ。
 天海という坊さんは春日の局と並んで黒衣の宰相として家康の有力なるお師匠番と立てられているが、家康がどれだけこの坊主の指導を受けたか、この坊さんの俗権に及ぼす勢力がどのくらいのものであったかということはもう一応研究して見る必要がある。
 それから東照宮へ行った、大した建築ではないががっちりしたものである、ここの拝殿に例の岩佐又兵衛の国宝歌仙額があるが鍵ががっちりして開かない、階段を下りて社務所のような処へ行って見ると、そこに大丸髷の絵看板をあげて女髪結を業としている、どうも社務所で女髪結はちとへんだ、ここで宝物を見せて貰えないかと頼むと、おかみさんがそれは御祭礼の時でなければ公開しないが、お望みならば連雀町の稲葉さんというのへ行ってお頼みなさると鍵をもって来て見せてくれます、その稲葉さんがここの神主様だという、連雀町では大変だ、とこっちは神田の連雀町とばかり受取ったが、やがてこの川越にも連雀町というところがあるのだと気がついたが、然し今日は時間を惜しむからわざわざという気にはならない、そのままここを出て中院の方へ向った。
 喜多院はもと北院と書いたもので、ここには北院、中院、南院の三大寺院があっ
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