に帰って来たよ、ほめてもらわなくちゃ」
「賞《ほ》めて上げますとも、坊やはこのごろお行儀がよくなりました」
「全くその通り、実は鈴木安芸守をたずねたまでは至極無事だったが、あれから計らず悪友に逢ってな……」
「悪友――でも、あなたに善友というのもありましたか知ら」
「ばかにするな、今日は善友も善友、輪王寺の執当を二人までたずねた上に、重役の鈴木安芸守と真剣な話をして来たのだ、正真正銘の精進日《しょうじんび》なのだ、ところがきわどい時に昔の悪友、土肥庄次郎というのにつかまって、松源で一杯飲まされた」
「それから?」
「それからお定まりの吉原へ誘惑を受けたが、待ってる人があると言って、きっぱり断わってここへ帰って来たのだ、どうだ、有難い心意気だろう」
「それはまあ、全く珍しいお心がけでした、ほんとに賞めて上げる価値《ねうち》が多分にありますね。でも、待っている人って、そりゃ誰でしょう、それが気がかりだわ」
「は、は、は、お婆さんが一人で淋《さび》しがってるとは、言えなかったよ」
「お気の毒でしたねえ、姉さんとでも、おっしゃればよかったのに」
「奴等、変な面《つら》をしやがったよ」
「あなた、御病気になるといけませんよ、あなたはあなたらしくなさらないと、かえって病気になりますわ、敵に後ろを見せるようになっては、神尾主膳も廃《すた》りじゃありませんか」
「そんなこたあないよ、今日は精進日だから、そういうところへ行きたくなかったんだ、それに姉さんが、ひとりで、根岸の里にお留守居だから、お淋しかろうと思いやったばかりじゃない、当節柄、女一人を置いては、全く危険だからな、心が落着かないよ」
「嘘にも、そうおっしゃっていただくことが嬉しいわ」
「うんと賞めてもらいたい」
「御褒美《ごほうび》に上げようと思って、この通り研いておりました、さあ、坊や、一つお上り」
「何だ、それは」
「ギヤマン」
「ギヤマンはわかっているが、この油のようなのは何だ」
「これはね、ブランと申しましてね、西洋《あちら》のきついお酒なのです、あなたに一口上げたいと思って待構えておりましたの」
「そうか」
と言った神尾主膳は、じっとそのギヤマンの小コップに盛られた黄金色を見つめたまま、手に取ろうとしませんでした。
いつもならば、こちらから催促して、キュッとひっかけるはずのところを、今日は妙に手を出さないものだから、お絹が、
「どうあそばしたの、イヤに御遠慮をなさるのねえ」
「うむ」
「何をそんなに考えていらっしゃるの」
「今日は精進日だ」
「そんなに精進というものは附いて廻るものですか知ら、わたし、気になりますわ、そんなに精進精進とおっしゃられると、わたしまで気が滅入《めい》ってしまいます」
「いや、悪く取るなよ、実は飲みたいんだ、咽喉《のど》から手が出るほど飲みたいんだが――これを一杯飲むとあとを引く」
「たんとお引きなさいな、そんなに幾つもいただけるお酒ではありません」
「一杯あとを引けばまた一杯――しまいにはお前を夜通し寝かさない」
「そんなこと、苦になりませんよ」
「それだけならいいが、拙者の病が出る、久しく酒乱の見せ場を出さなかったが、こいつは急に自分を誘惑する、手つかず人を酒乱に落しそうな酒だ、今晩は我慢しよう」
「そうおっしゃるなら、免《ゆる》して上げましょう、今晩はあなたの精進をさまたげないで上げましょう、では、わたしが代って」
と言いながら、小さなギヤマンについだブランと称する黄金水をとって、お絹がグッと呷《あお》ってしまいました。そうして、仰山に眉根を寄せて、火の玉でも呑み込んだ思い入れで、胸を揉《も》む形が可愛らしいお婆さんだと言って、神尾をよろこばせました。
そうして、精進にはじまって精進に終った神尾が、その夜は無事に閨《ねや》に入りました。
三十八
寝についたが、妙にかん[#「かん」に傍点]が高ぶる。今晩の鈴木邸の会談が骨となって、それにさまざまの想像の肉が附こうというものです。
それでも暁方《あけがた》になると神経が鎮《しず》まって、それから熟睡に落ちて、朝日の三竿《さんかん》に上る頃にやっと眼をさましました。こんなことは、いつもの習いですが、昨晩の昂奮は内容が日頃と違ったまでのことです。
不承不承に起き上って見ると、お絹が台所で何かと小まめに働いているらしい。こんなことも珍しいもので、起きて見ると、おめかしの最中であってみたり、どうかすると置いてけぼりを食って、一日を焦《じ》らされてしまうこともおきまりのようなのに、今日はお台所で甲斐甲斐しく立働いている物音が、なんだかくすぐったいような気持がさせられて、それでも、一軒の家で主婦がまめまめしく台所で働く物音は、悪い感じは与えないものだと思いました。
それから、茶の間へ入って見ると、どうでしょう、夥《おびただ》しい御馳走が、ちゃぶ台の上狭きまでに立てならべられて、膳椀も、調度も、取って置きのを特に持ち出したような体《てい》たらくですから、神尾が、いよいよくすぐったいような気持です。
まもなく二人がお膳についた時に、大丸髷のお絹が、きちんと身じまい薄化粧にまで及んで、たいへんな澄まし方でお給仕に立つのが、あんまり現金で痛み入るくらいのものでした。
「何もございませんが、今日はお婆さんの手料理ですから、たくさん召上っていただきます」
「お手料理かなあ、それは痛み入ったよ」
「お酒は差上げません、精進を妨げるとお悪いから、お酒は差上げません、その代り、お気に召しましたら何なりと」
「どうしてまあ、今日はこんなにもてなされるのかなあ、あとが怖いようだぜ」
「あとの怖いものは、今日はすっかり取上げましたから御安心くださいませ」
と言って、お絹がお鉢を取ってお給仕に当りました。
神尾としては、この女のもてなしで、こんな晴れやかな気分に置かれたことはない。
どういう了見で、今日に限って、こんなにまでしてくれるか、わからない。自分の誕生日でもなければ、父母の命日でもないのにと、うす気味が悪いほどだが、それでも悪い気持はしないのです。
「あなたが昨夕《ゆうべ》、どこへも行かずに、おとなしく帰って下すったから、そのお礼心なのですよ」
と言ったから、神尾がははあと感づきました。なるほど、ゆうべ、お世辞にも、待ってる人があるからと言って、吉原附合いを断わって戻って来た、それがこの女は嬉しいのだよ。一人で置いて留守が心配だから、夜更けを押して帰って来た、その心意気を買ってるんだ。買われたこっちはくすぐったいものだが、買った当人の心意気は殊勝でないとは言わない。
女というものはこういうものなんだ。したい三昧《ざんまい》をしつくしていても、べつだん悪い面はしなかったが、そのしたい三昧をあきらめて、お前のために帰って来た、と言われると、女は嬉しいのだ。何よりも嬉しいと見える。だからこの海千山千の代物《しろもの》が、貰いたての女房のような心意気を見せて、この不精者が、おしろいの手を水仕《みずし》に換えて、輸入のテン屋を排撃して、国産を提供して、おれに味わわせようというのだな。
女というものはこれだ。あんまり現金過ぎて、くすぐったいけれども、可愛いところがあるよ。なるほど、女は喜ばすべきものだ、女を喜ばすには、金をやることもいいし、品物をやることもいいが、一番いいのは、お前に限ると言ってやることだ。言ってやるだけではない、実行に現わして見せることだ。昨夜おれが吉原行きを断わって戻って来たのを、放蕩者《ほうとうもの》に似合わない、敵に後ろを見せるは名折れだとひやかしたが、本心はやっぱり、おれが吉原を断わって、待たせてある人のために帰って来てくれた、それがこんなに嬉しいのだ。
そう思うと、この女も存外、女だ、女というものは憎めないものだと、神尾も身に沁《し》みる一種の愛情といったようなものが、油のように滲《にじ》み出して来ました。
三十九
こうして睦《むつ》まじく、食事を終ると、神尾主膳が、
「また今日も上野へ出かけて、坊主に面会して来る、話が長くなるかも知れんが、たとえどんなに遅くなっても帰って来るから、お前も、なるべくよそへ出ないでうちにいてくれ」
「ええ、よろしうございますとも、あなたさえ帰って下されば、どんなに遅くまでもお待ち申しておりますよ、悪友がおすすめになりましても、昨晩のように待っている人があるからと言って、御免蒙っていらっしゃい」
「今日のは悪友じゃない、坊主に会って来るのだから、いよいよ安心なものだ、その坊主も只者《ただもの》ではない、エライ豪傑坊主だということだから、こっちが望みで会いたいのだ」
「何でもいいから、エライお方にはお目にかかってお置きなさい、つまらない人にはなるべく会わないように、己《おの》れに如《し》かざる者を友とする勿《なか》れって言いますから」
「いやはや、世界は変るぞい、お前から論語を聞くようになった。じゃ、行って来るぞ」
「行っていらっしゃい、お早くお帰りなさいよ」
こうして、すっかり身なりをととのえてやり、ポンと一つ背中を叩いて、出してやりました。
神尾主膳の行く先のエライ坊主に会いに行くというのは、覚王院の義観のことでしょう。覚王院も、竜王院も、その昔から知らぬ間柄ではない。世の常の坊主と思っていたら、このごろになって、その評判がばかに高い。ことに昨夜の鈴木安芸守の見立てによると、京都の公卿の岩倉三位というのと匹敵する人物だという。岩倉がどのくらいの人物か知らんが、朝廷にいて、薩摩や長州の首根っ子を取って押えるというのだから、相当なものに相違あるまい。それが西で事を挙げると、こっちは東にいて相撲が取れる相手は覚王院の義観だという見立ては、当るにしても、当らぬにしても、後学のために会って置いていい坊主だ、そういうような気分で神尾主膳は、程遠からぬ、根岸からつい一足上りの上野の山へ今日も出かけて行きました。
その留守には、お絹がおとなしく待っている。
誰も来ないとなると、閑の閑たる根岸の里。お絹は大丸髷《おおまるまげ》に手拭を着せて、主膳の居間の掃除をはじめました。
神尾主膳の居間は、らんみゃくです。王羲之《おうぎし》もいれば、※[#「ころもへん+楮のつくり」、第3水準1−91−82]遂良《ちょすいりょう》もいる、佐理《さり》、道風《とうふう》もいるし、夢酔道人も管《くだ》を捲いている。自叙伝のようなものと、このごろ書きさしたその原稿も散らばっているし、そこらあたりは、さんざんの体でありますが、これは主膳が、ことわって、うっかり手をつけさせなかったという理由もあるけれど、二人ともに無精《ぶしょう》ぞろいのさせる業でもありましたが、今日は、すっかりそれを掃除して、一点の塵もとどめぬようにこの一間を清算してしまいました。
掃除ということに、こんなに身を入れたことは、お絹としては、生れてはじめてのようなもので、掃除をきれいにしてみると、室がきれいになるばかりではない、身心も何だかさっぱりして、若々しい気分に満ちて、まだ本当の意味では味わったことのない新所帯の気持、どうやら新婚の気分といったようなものに浮き立つのも、いまさら気恥かしい。
夕方になると、約束よりも早く立戻った神尾主膳。
お絹に賞《ほ》められること、そうして、その日の晩餐も、睦《むつ》まじく、お絹の待構えた手料理とお給仕で快く済ましてから、食卓の談《はなし》がはずむ。
「聞きしにまさるエライ坊主だよ、あれだけの見識とは思わなかった、実際会ってみると談論風発、当代の人豪顔色無しだ、なるほど、あれなら輪王寺を背負って立って、関東のために気を吐くこと請合い、ちょっと、あれだけの大物は無いなあ、坊主にして置くは惜しい、政治家にしても、軍人にしても、大仕事のできる奴だ」
と言って感歎の声を惜しまない。お絹も煙にまかれて、
「そんなにエライ坊さんが、今時、上野にいらっしゃるのですか」
「いるとも、いるとも、あの坊主の説を聞いて、おれの頭の中は一
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