人の中には人を食う種族がある、鬼に近い人種がいる、或いは鬼よりも獰猛《どうもう》な人類がいることが、空想的な頭にあるものですから、兇暴なる土人の襲撃の怖るべきことは猛獣以上である。猛獣は嚇《おど》しさえすれば、人間を積極的に襲うことはまずないと見られるが、土人ときては、若干の数があって、何をするかわからない。
「見給え、あそこに小舟がある」
「舟でございますか、ははあ、なるほど」
 それは小舟です。しかもその小舟が、半分ほど砂にうずもれながら波に洗われつつある。最初は岩の突出かと思いましたが、なるほど、舟だ、その舟も、どうやらバッテイラ形で、土人の用うるような刳舟《くりぶね》でないことを、かすかに認めると安心しました。
 この捨小舟《すておぶね》をめざして急いでみると、それから程遠からぬ小さな池の傍の低地に小屋を営んで、その小屋の前に人間が一人、真向きに太陽の光を浴びて本を読んでいる。黒い洋服をいっぱいに着込んでいるから、それで最初に清八が熊と認めたそれなのでしょう。こちらが驚いたほどに先方が驚かないのです。駒井主従が近寄って来ても、あえて驚異の挙動も示さず、出て迎えようともしないし、来ることを怖れようともしていないのが、少し勝手がおかしいとは思いながらも、危険性は少しも予想されないから、そのまま近づいて見ると、先方は鬚《ひげ》だらけの面をこっちに向けて、じっと見つめていることは確かだが、さて、なんらの敵意もなければ、害心も認められない。
 いよいよ近づいて見ると、原始に近い姿をしているが、その実、甚《はなは》だ開けた国の漂流者と見える。駒井がまず、英語を以て挨拶を試みてみました、
「お早う」
 先方がまた同じような返事、
「お早う」
 駒井の英語が、本土の英語でないように、先方の発音もまた借りの発音らしいから、英語を操るには操るが、英語の国民ではないという認識が直ちに駒井の胸にありました。
 けれども、英語を話す以上は、その国籍はともあれ、時代に於ては開明の人であり、或いは開明の空気に触れたことのある人でないということはありません。英国は海賊国なりとの外定義はあるにしても、その個人としては、直接に人を取って食う土人でないことは確定と思うから、ここで三個の人間が落合って、平和な挨拶を交し、これからが駒井とこの異人氏との極めて平和なる問答になるのです。

         五十

 駒井甚三郎は、まず、初発音に於て、この異人氏が英語は話すけれども英人でないことを知り、話してみると、この土地に孤島生活をしているけれども漂流人ではないということも知りました。誰も予想する如く、船が難破したために、この島へ漂いついて、心ならずも原始生活に慣らされている、早く言えば、ロビンソン漂流記の二の舞、三の舞である、とは一見、誰もそのように信ずるところだが、少し話してみると、やむことを得ざる漂流者ではなくて、自ら好んで単身この島へ渡って来て、また好んでこういう原始生活を営んでいる生活者であるということを、駒井甚三郎が知りました。
 これが駒井にとって、一つの興味でもあり、好奇心を刺戟すると共に、研究心をも刺戟して、これに会話の興を求めると共に、この異風の生活の白人を研究してみなければ置かぬ気持にもさせたのです。今日の開明生活を抛《なげう》って、何しに斯様《かよう》な野蛮生活に復帰したがっているか、それも、やむを得ずしてしかせしめられているなら格別、好んでこういう生活に入り、しかも、一時の好奇ではなく、もはや、あの小舟が朽ち果てる以前から来ており、今後、この島にこの生活のままで生涯をうずめる覚悟ということが、驚異でなければなりません。
 駒井甚三郎と異人氏の、覚束《おぼつか》ないなりの英語のやりとりで、しかも、相当要領を得たところの知識は、だいたい次のようなものでありました。
 この白人は、果して英国人ではない、本人は、しかと郷貫《きょうかん》を名乗らないけれども、フランス人ではないかと駒井が推定をしたこと。
 年齢は、こういう生活をしているから、一見しては老人の如くに見ゆるが、実はまだ三十代の若さであること。
 学問の豊かなことは、ちょっと叩いてみても、駒井をして瞠目《どうもく》せしむるものが存在していたということ。
 そこで、つまりこの青年は、三十代と見ればまだ青年といってもよかろう、一見したのでは五十にも六十にも見えるが――この青年は、何か特別の学問か、思想かに偏することがあって、その周囲の文明を厭《いと》うて、そうして、わざとこの孤島を選んで移り住んでいる者に相違ないということが、はっきりと判断がつきました。
 そういう類例は、むしろ東洋に於ても珍しいことはない。日本に於ても各時代時代に存在する特殊の性格である。こういう隠者生活というものは、
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