ろから嗾《けしか》けるもののように、
「承知いたしました、わたくしは、あなた様のお申出でを、このまま素直にお受入れ致します」
「うむ――」
と言って、駒井甚三郎が、その足を大地に踏みこたえるように立て直して、
「有難い――よく承知をしてくれました、今晩から、あなたは、わたしの妻です」
「かような、これより以上の大事はないお申出でを、そのまま、この場でお受けする気持になった、わたくしというものの我儘《わがまま》をおゆるし下さい、わたくしは自分で、もう自分のことがわかりませぬ、無条件で、なんでもかでもあなた様のお申出でに従うよりほかに道がないことを犇《ひし》と身にこたえました、本来ならば、充分に考えさせていただいて、せめて今夜一晩なりとも、静かに考えさせていただいてから、最後の御返事をしなければならないのに、それをしないで、この場で、こんなに手軽く仰せに従う、わたくしというものの軽佻《かるはずみ》を定めてお心の中ではおさげすみになっていらっしゃるかと存じますが、わたくしは、もうさげすまれようが、賤《いや》しまれようが、左様なことを考えている余裕はないのでございます、今晩一晩考えさせていただいたに致しましても、明晩、明後日、一生涯考えてみましたとても、このお返事は考えてはできません、それ故に、この場で、あなたのお心に従います――それが、僭上であるか、男女の道に外れているか、いないか、世間態のために、あるべきことか、なかるべきことか、そんなことも、以前のわたくしならば、充分に考えている余裕がありましたでしょうが、今のわたくしにはそれがありません、あなた様が、当然のこととして、それをお申し出でになったように、わたくしも当然のこととして、それをお受入れ致します、誰が何と言っても、もはや怖れません、誰に対して済まないことになるか、済むことになるか、そんなことも一切はここで忘れ去ってしまっております、この、はしたない、慎しみのない女を、お憐《あわれ》み下さいませ」
 畢生《ひっせい》の力を振《ふる》って、こう言ったお松の舌は雄弁でした。平静に、平静にとつとめながら、その間から迸《ほとばし》る熱情が、火花のように散るのを、駒井は壮《さか》んなものをながめるかの如くに見つめて、
「有難い、わたしは今まで、いかなる女性からもそういう強い愛情を受けたことがありません、女性が男性の要求を受ける場合に、抵抗がなくして、それに成功のあることは絶無です、積極にか、消極にか、抵抗を受けてその後に征服があるのです、結婚というものの原始の形式はそれでした、それが進歩して、その間に、あや[#「あや」に傍点]というものだけが残っている、一旦は拒むものです、許す気持を以て争うものです、よい意味の芝居をしないで、男の要求を受入れる女というものはありません、それをお松さんだけがしない、これは偉大なる強さです、この抵抗のない抵抗の何という強さ、今晩、駒井甚三郎は、生きているという喜びを感じました」
「わたくしも、初めて、女として生れ甲斐があったということを、今こそ欺《あざむ》かずに申し上げることができるのでございます。駒井甚三郎様、男として、あなた以上に依頼のできる人が、あなたのほかにはございません、あなた様もまた、女として、友として、同志として、わたくし以上に信用のできる相手を見出し得ようということは、もはや、わたくしが許しませぬ、許したとても、それは見出すことが不能でございましょう、どんな海の果て、陸の末までも、わたくしは、あなたと運命を共にする唯一人の女でなければならないと、それは、ただ張りきった一時の感情で申し上げるのではございません、あの時から、運命がそうさせたのでございます。この大きな力をごらんください、もはや、わたしの身であって、わたしの身ではございません、この大きな力に押され、大きな力に引きずられているわたしを、お憐み下さい、わたくしは、もう自分の力で自分をささえることができませぬ、自分で今何を言っているかさえわからなくなりました」
 この時に、お松は身を以て駒井の上に倒れかかりました。
 全く、自分で自分を支えることができない。今まで堪《こら》えに堪えていたけれども、もう持ちきれないこの重味を、持ちかけられるのはそこよりほかにはありません。その怖るべき力を、真面《まとも》に受けた駒井甚三郎は、よろよろと、それを受留めながら、これも自分の力で自分の足もとを支えることができず、最初から楯《たて》に取っていた椰子の大木に支えられて、そこで、烈しい泣き声が、駒井の胸の中にすっかりかき埋められて、それでも井堰《いせき》を溢るる出水のように、四方にたぎるのを如何《いかん》ともすることができません。
 身を以て泣く女の力、駒井はその力が、雷電の如く火花を散らす強さを知りま
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