りました。
 その時分のお松は、駒井の殿様は、殿様として尊敬はしていたけれど、それは有っても無くてもよい存在のようなもので、お君さんだけがなければならない人で、その人のために、身を尽し心を尽して尽したつもりですけれども、ついにその効《かい》がありませんでした。自分の無力を歎くと共に、お君さんの不幸な一生を、歎いても歎き足りない気でいます。その時の自分の心には、宇津木兵馬というものだけがあって、そのほかの男性のことはありません。この世で、いちばん縁のありそうな人で、その実、いちばん縁のないのが兵馬様であります。紙一重《かみひとえ》の違いが、いつでも千里の外にそれる、それをお松は、運命というものは、いつもこうしたものだと、雄々しくもその時に思いあきらめて、更に新しい仕事を、新しい勇気を見つけては、ここまで進んで来ました。
 海上の生活から、今の役目が重くしていそがしいために、このごろは思い出すこともなく、お君と、兵馬のために、心の痛手を病むことが少なくなって来ていました。それを、このごろ再び、物思う身となりました。昔は人の身、今はわが身というような、言い知らぬ心の痛みが、お松を悩ますもののようです。
 ある時は、お君さんに済まない! というような夢心地になって、ハッと我にかえることさえありました。お君さんの運命が、今日となって、わが身に降りかかろうとは、それは夢の外の夢のような思いに堪えられません。
 それから、お松はなるべく、主人の室に遠ざかって仕事をしようとしました。わざと次の間に持ち出してみたり、今まで心置なく物をたずねたり教えを受けたりすることも、この頃からなるべく口を利《き》かぬように、物を言わぬように、できるならば、ひとりだけ離れて船の中にいたいというような気分に迫られて来たのが、自分でもわかりません。
 駒井もまた、気のせいか、態度に変りはないとは言いながら、お松に向ってする口の利き方が鈍くなって、少なくなったように思われます。お松は、この心の間の裂け目を悲しいと思いましたけれども、その悲しさのうちに、何か甘いものが、重い心の躍動というものがあるのを感ぜずにはいられません。
 それから幾日の間、こんなようにして、二人は、外見は少しも変らずに、助けつ助けられつして過しましたが、その間にも、先日のような突っこんだ話は少しも出ませんでした。
 駒井は冷静な科学者の立場で研究をつづけている、その変らぬ面の、すずしい中のきびしさを見ると、あの時の、あの言葉が、通り魔のように、何ものかのいたずらがさせたことではないかと感ずるばかりです。
 それから一週間ばかり経って後のある日、開墾の方が予定よりもずっと速《すみ》やかに進んだことのお祝いを兼ねて、慰労の催しをすることがありました。その主唱者は七兵衛で、また委員長も七兵衛であります。取って置きの食糧を整理して、赤の御飯を炊《た》く、手づくりの諸味《もろみ》の口を切る、海でとった生きのいい魚、陸で集めた自然の野菜、バナナ、パイナップル、それから信天翁《あほうどり》を料理した肴《さかな》、そういったような山海の珍味を用意して、折柄、その晩は大空に皎々《きょうきょう》たる月がかかり、海上千里、月明の色に覆われて、会場は椰子《やし》の葉の茂る木の間に開かれてありました。
 勇ましき開墾の凱歌を唱えて、一同が飽くまで、この月に酔い、海に躍るの興は、世界に二つとない、ここまでの苦を慰めるに余りあるもので、全員がみな十二分に歓を尽し、歌うもの、踊るもの、吟ずるもの、語るもの、さまざまに発揮して、島一つ浮き上るような景気でした。
 七兵衛は、自ら楽しむと共に、司会者としての用心に抜かりなく、白雲は酒を呑んで、ひとり嘯《うそぶ》いて豪吟をはじめる、それについて清澄の茂太郎が、身振りあやしく踊って倦《あ》きないものですから、田山も歌って疲るるということを知りません。茂太郎の踊りは一座の花であると共に、他の船頭たちもまた、これにそそられて芸づくしがはじまります。白雲は興に乗じて、それらのお国芸をいちいち審査審判して廻りました。
 ウスノロのマドロスまでが、大はしゃぎでハーモニカを持ち出すと、それがまた一座の人気を呼ぼうというものです。
 そこで興がいよいよ亢《こう》じて、尽くるということを知りません。

         二十七

 駒井甚三郎は酒を飲むことをせず、また唄うことも、踊ることも、いずれも興味を持ち得ていないけれども、ただ、衆がたわいなく喜び興ずること、そのことを興なりとして、やがて、自分ひとりこっそりと椰子《やし》の葉蔭から海岸の方へと歩みを運んで、上気した頬を海風に嬲《なぶ》らせ、かがやく汀《みぎわ》の波に足許を洗わせながら、歩むともなく歩んで行きました。
 お松も同じ思いです。皆の楽し
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