た弾丸黒子《だんがんこくし》の姿を見ると、そのただ犬でない犬が、唸《うな》るが如く、米友に向って吠えました。
「やあ、いたな!」
 彼が、摺《す》りよるほどに近づくと、犬は続いて尾を振って吠えかける。その吠える声が、さきに米友が評した如く、「腹で吠えてやがる」という底力のある吠え声であることはよく知っているが、それが威嚇《いかく》の音声でないことは、多少とも尾を振っていることを見てもわかる。且つまた、犬を知り、犬を愛し、犬を理解することに於て、宇治山田の米友はまた一つの天才である。
「やあ、いたな!」
 犬の傍へ寄ると、犬がまた米友に飛びついて来ました。飛びついて来たからといって、この異様な珍客に争闘を挑《いど》むのではない、これを懐かしがって心からの抱擁を試みんとするものらしい。
 けれども、この抱擁が生やさしい抱擁でなかったことは、一見すると、米友がこの犬のために抱きすくめられてしまったとしか思われない。尋常ならば悲鳴をあげ助けを呼ぶべきほどの体制に置かれた瞬間、米友は更にひるむということを知らないで、抱きすくめられながら、それを抱きとめてあしらっている。
 一見したばっかりの米友が、かくまで犬を愛するということは、犬にかけての天才であってみると不思議はないようなものだが、相手方の犬が、米友を一見しただけで、こうにも懐かしがるということは解《げ》せない。
 本来、沈毅《ちんき》にして、忠実なる犬であればあるほど、人見知りをすべきはずのものである。真に沈毅にして、勇敢にして、忠実なる犬は、二人の主というものを知らない。主人以外の人の与うる物を食わない。主人以外の人には一指を触るることを許さないはずのものであるべきに、この犬――しかもただ犬でないと、最初から米友が極《きわ》めをつけてかかった非凡な犬が、こうまで一見の人になつき慕うとは、慕われてかえって物足りない。
 人見知りをしない犬、節操を解しない犬、忠義ということを知らぬ犬、勇気なき犬、公娼《こうしょう》の如き犬ならば知らぬこと、米友ほどのものが、あらかじめ極めをつけた犬にしてこのことあるは何が故だ。
 そういうことを考慮に置かず、ただ見ていれば、何のことはない、その非凡犬と、小男とが、必死になって、組んずほぐれつしているとしか見えない。血こそ流さないが、血みどろで格闘しているとしか思われない。
 ことに、この犬がただ犬でない非凡の犬であることの証拠としては、その大きさが、たしかに人間の二倍はあること。米友は人並よりずんと小粒ではあるけれども、それでも成長した人間であって、身長こそ四尺であるが、体重は十貫を下るということはないのに、犬はその面積に於て、米友を抱きすくめて存在を失わせるほどの体格があって、しかも全身が、猛獣のような虎斑《とらぶち》で彩《いろど》られている。体格はどう見倒しても確実に、その男の二倍はあるから、体重としても二十貫を下るということはない。
 ムクも非凡な犬ではあったが、その体格の非凡さに於ては遥かにムクを凌駕《りょうが》する。およそ今日まで、これほどの大きな、非凡犬を見たことはない。犬に熟した米友が見たことがないのみではない、今の日本人である限り、これだけの犬を、ここで見るよりほかに見た人もあるまいし、見られる場所もあるまいに相違ない。
 この無比の豪犬を相手に今、米友は組んずほぐれつしている。気が短くて、喧嘩っ早いにかけては名うてのこの小男は、ここへ来るともうこのザマだ。だが、格闘でも、喧嘩でもない、米友が犬を愛し、犬が米友に懐《なつ》く、一見旧知の如しというのがこれで、人に許さざる犬が、米友には許す、猫がまたたびに身を摺《す》りつけるように、犬の眼から見ると、米友はまたたびのような人種で、慕い寄られる素質を持っている。
 同時にまた、米友の方でも、無意味にこうして愛着の組討ちをしているのではない、実はその愛情を事実に示そうとして、もがいているのです。というのは、この犬は首に鉄の環《かん》をハメられて、首が二重に麻の太縄で結えてある。それを外してやろうとしてもがいているのです。
 犬というものは繋《つな》がれる時に騒がないで、解かれる時に狂うものである。この犬を、その鉄の鎖と荒縄から解放してやりたいために、米友は犬と組討ちをしている。犬もまた、米友を慕うだけではない、この理解者の手によって、暫《しば》しなりとも広漠な野性に返してもらいたいがために焦《あせ》っている。犬も力が非凡だが、米友もまた非凡な力を持っている。非凡同士が組討ちをして容易にほぐれないのは、環にかけた合鍵の調子がよくわからないからである。米友がその勝手に迷っている間に、犬は解放を予期して容赦なく喜び狂うから、それで、外目《よそめ》にはいつまでも大格闘が続くようにしか見られないのです。

         十五

 米友が躍起となって、ねちこちしているところへ、不破の関守氏が現われました。
「友造どん、何をしている」
「犬を放してやりてえんだよ」
「よし、解放してやる」
 不破の関守氏は近寄って、これは手に入ったもので、難なく鍵を外すと、豪犬が尾を振ってつきまとい、或いは人間の上を高く越えたりなどする。
「このお犬係りはおいらが引受けた、犬をならすには上手に放してやらなくちゃならねえ、犬は食い物より運動だ」
と米友が言いました。この男は、お君と共にムク犬を仕立てることに、永らくの経験があって、そうして成功している。犬は訓練をしなければもの[#「もの」に傍点]にならない、これを野方図にしないためには繋縛をして置かなければならないが、これを強健にするためには解放しなければならない。食物はむしろ第二、第三であることを知っていた。犬は食うことよりは、走ることを本能として先に要求していることを知っている。そこで、この繋がれたる豪犬を見ると、いちずに放してやりたくなった。放したところで、放された人を犬は忘れない、放した人もその責任として、放された犬の面倒を見てやらなければならない。犬を走らせるにしても、これを監督するの責任は人にある。そこで米友は、この犬を走らしめつつ、自分も少し走ってみたい気持になったのです。
 不破の関守氏は、そのことを知っている。米友が犬を愛する性癖を、胆吹山時代から知っていて、時あってムク犬の昔語りを聞かされたことを覚えているから、そこで、この犬を解いて、しばらくこの男に無条件で托してみる気になったのです。
「君、珍しい犬だろう」
「全く珍しいよ、犬もこうなると猛獣だね」
「いや、いかに大きくても、やっぱり家畜は家畜だよ、人間に依存して生きるものだ、だが、依存される人間が位負けをすると、もの[#「もの」に傍点]になるものももの[#「もの」に傍点]にならない」
「その通り――」
と米友は得意気に叫ぶと共に、
「何て名なんだい」
「電光――デンコウという名だよ」
「デンコウか――デンコウ」
と米友は、その名を呼んで頭を撫《な》でてやりますと、犬が尾を振って躍《おど》り上る。かわいそうに、この犬が躍り上ると、米友を抱きすくめてしまうから、抱きつぶしてしまうおそれ[#「おそれ」に傍点]がある。
 不破の関守氏はこの体《てい》を見て感心して、
「なるほど、君は愛犬家の資格を備えている、この犬が一見して君になつくんだからな、もっとも純日本産の犬と違って、あっちの犬は開けている」
「こりゃ、ドコの国の犬だい」
「これは、ドイツという国の種で、グレートデーンという舶来犬だそうだ、デーンだから、デンコウとつけたが、電光石火の如く走るという意味も兼ねている」
「あ、力がありやがる」
 改めて米友は、縄をかけ外してみて、この犬の力量を認識する。
「あるとも、この犬が三匹いると、百獣の王なる獅子、あちらではライオンという、その獅子と取組むそうだよ、犬が二匹で大熊を退治るそうだ、まず犬のうちでいちばん強いのはこれだろう」
「どうして、どこから連れて来たんだ」
「これは泉州堺から売りに来たのだ、毛唐が黒船に載せて大切につれて来たのを、今度、国へ帰るので、もてあまし、引取り手を探した揚句が、ここの女王様のお気に入り、早速引取ることになったのだが、この通り可愛ゆい奴だが、いやはや、世話をする段になると並大抵じゃないぞ」
「そうかなあ――一番、責めてみてくれべえ、デン公、こっちへ来い」
 米友が先に立って、走り試みると、豪犬が勇躍してそれに相従う。
 かくて、この大犬と、小男とは、再び光仙林の林の中へ没入してしまいました。
 不破の関守氏は、その後ろ影を見送って、ひとり呟《つぶや》いて言いました、
「物あれば人あり、いい時にいい人を与えられたものだ、デンコウのお相手はあれに限る、おかげで拙者も、お犬係りを免職になった、事実、これから、当分、あの犬の面倒を見なけりゃならんとすると、考えるだけでも大役だった!」

         十六

 走り去る小男と、大犬の姿が、光仙林の中に没入した後ろ影を、不破の関守氏は、ぽつねんとながめて、ひとり言を言っておりますと、後ろから、
「ヘエ、こんにちは、お早うございます」
 いやにしらっぱくれた挨拶《あいさつ》をする者がありましたから、関守氏が振返って見ると、三度笠に糸楯《いとだて》の旅慣れた男が一人、小腰をかがめている。
「やあ、がん[#「がん」に傍点]君ではないか」
「ええ、そのがんちゃん[#「がんちゃん」に傍点]でげすよ」
「もう帰ったのか、なるほど早いもんだなあ、能書だけのものはあるよ」
「へえ、たしかにお使者のおもむきを果して参りました、青嵐親分《あおあらしおやぶん》にお手紙をお手渡しを致して参りました、同時に、あちらの親分からこちらの親分へ、この通り、お消息《たより》を持参いたして参りました」
「親分親分言うなよ、人聞きが悪い、ああ、これがその青嵐氏からの返事――十四日|亥《い》の時、なるほど早いものだなあ、その足は」
「いいえ、もう疾《と》うに、昨夜のうちに、こちらまで参上いたしたんでげすが、つい、御門前がやかましいもんですから、今朝まで遠慮いたしやしてね」
「何も昨晩、この門前が格別やかましいこともなかったはずだ――ははあ、あの犬だな、今日の明け方、犬が吠え出したのが不思議だと思ったら、貴様がやって来たんだな、ああ、それでわかったよ、それそれ、それで犬が吠えたんだな、犬がこわくって、今まで近寄れなかったというわけだな、意気地がねえなあ、口と足は達者だが、肝っ玉ときた日にはみじめなものだな」
 不破の関守氏からこう言ってからかわれたので、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は躍起となって、
「いや相性《あいしょう》がいけねえんですよ、とかく、犬てえ奴はがんちゃん[#「がんちゃん」に傍点]の苦手でげしてね」
「そうだろう、犬に吠えられるような人相に出来ている。今のあの小男を見たか、あれは人徳を持っているから、犬もおのずから懐《なつ》いて、一見旧知の如く、彼が走れば犬も走る、貴様は臭いをかいだだけで吠えられる、つまり、人格の問題だよ、人徳の致すところだから是非もない、ちと見習い給え」
「冗談《じょうだん》じゃございませんよ、犬に嫌われたからって、人徳がどうのこうのと言われちゃあ埋《う》まらねえ、がんちゃん[#「がんちゃん」に傍点]儀は犬には嫌われますが、年増《としま》や新造《しんぞ》には、ぜっぴ、がんちゃん[#「がんちゃん」に傍点]でなけりゃならねえてのが、たんとございますのさ」
「馬鹿野郎――それ、涎《よだれ》を拭いて。その手紙を濡《ぬ》らしちゃいかん」
 かくして不破の関守氏は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵の手から一通の手紙を受取って封を切り、それを読み読み住居の方へ歩いて参りますと、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百も、笠を取り、ござを外《はず》して、それについて来る。
「なんにしても、どちらを向いても百姓一揆《ひゃくしょういっき》てんで、たいした騒ぎでござんしたよ、その中をいいかげん胡麻《ごま》をすってトッパヒヤロをきめ
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