ニ、何卒《なにとぞ》御支配ヘハ話ヲシテクレルナトテ、和ボクヲシタ、ソレカラ酒ガ又出テ、大竹が云ウニハ一パイ飲メトイウカラ、酒ハ一向呑メヌトイッタラ、ソレハマダ打チトケヌカラダトヌカス故、盃《さかずき》ヲヨウヨウ取ッタラ、吸物椀デ呑メト皆ンナガ云ウ、カンシャクニサワッタカラ、吸物椀デ一パイ呑ンダラ大勢ヨッテ、今一パイトヌカスカラ、ソレカラツヅケテ十三杯呑ンダ、後ノヤツラハ呑ンデイロイロ不作法ヲシタカラ、オレハソノ席デ少シモ間違ッタコトハシナカッタ、兵庫ガ駕籠《かご》ヲ出シタカラ、乗ッテ橋本庄右衛門ガ林町ノウチマデ来タガ、ソレカラ何モ知ラナカッタ、ウチヘ帰ッテモ三日ホドハ咽喉《のど》ガ腫《は》レテ、飯ガ食エナカッタ、翌日皆ンナガ尋ネテ来テ、兵庫ガウチノ様子ヲイロイロ話シテ、ソノ時、橋本ト深津ハ後ヘ残ッテ居テ、以来ハ親類同様ニシテクレトイウテカラ、両人ガ起請文《きしょうもん》ヲ壱通ズツヨコシタ、ソレカラ猶々《なおなお》本所中ガ従ッタヨ、兵庫ガ脳ガ悪イカラ、講中モ断ワッテヤッタ、ソノ時オレガ加入シタ分ハ、残ラズ断ワッタ故、段々スクナクナッテツブレタヨ」
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なんだ、くだらない、こんな奴に講中を頼む神主も神主だが、檀那《だんな》ぶりをして、満座の中で裏店神主はヒドイ、こいつは甥なるものがオコルのが当然だ、全く埒《らち》もない奴等だが、さて、こうなってみると酒が飲みたいな、吸物椀で一ぱい、ぐうーっとやりたいな。
飲める奴なら吸物椀で十三杯も、さして驚くには当らないが、てんで呑まない奴が十三杯は利《き》いたろう。こうなるとおれも、生きのいいやつを、塗りのあざやかな吸物椀でグイグイ引っかけたくなったよ、と神尾主膳が一応、書巻を伏せて、咽喉をグイグイと鳴らしました。
六十四
咽喉をグイグイと鳴らしたけれど、いずれを見ても酒はなし、吸物椀もないし、咽喉を鳴らし、津《つ》を飲みながら、またも書物を取り上げたのは、一つは所在なさと、一つは書物に対する興味、いわゆる巻を措《お》くに忍びずというやつであろうかと思われること。
その途端、
「チワ――これはこれは、御書見の体《てい》、小人閑居して不善を為《な》し、大人静坐して万巻の書、というところでげすか、いや、恐れ入ったものでげす」
いやはや、イケ好かない奴が来たもので、例の鐚《びた》であります。
「鐚か――一ぱい飲みたいと思っていたところだ」
「イケません、せっかく聖賢の書をひもといて善良な感化に落着きあそばそうというその途端に、酒というやつが悪魔! そもそも、和漢をいわず酒を賞すること勝計すべからず、放蕩《ほうとう》の媒《なかだち》、万悪の源、時珍が本草ことごとく能毒を挙げましたが、酒は百薬の長なりと賞《ほ》めて置いて、多く食《くら》えば命《こん》を断ったと言いましたぜ」
「えらく貴様、今日に限って学者ぶるな」
「ちっとばかり学問をして参りやした、時にごらんあそばす聖賢の書はいったい何でござりますな、大学でげすか、論語でげすか。君子に三ツの戒めあり、少之時《わかきとき》は血気|未《いま》だ定まらず、戒しむること色にありス、酒に次いでは色の方をつつしまずんばあるべからず」
「この野郎!」
「この野郎は怖れやす、殿様ともあろうお方のお言葉とも覚えやせん。さて、鐚儀《びたぎ》、今日の推参の次第と申しまするは、決して色の酒のと野暮《やぼ》な諫言立《かんげんだ》てのためにあらず――近来稀れなる風流の御相談を兼ねて参じやした」
「風流――風通《ふうつう》の間違いだろう、風通の一枚もこしらえたいが、銭がねえというところだろう」
主膳も、いささかアクドイ応酬を致しましたが、鐚に於ては洒唖乎《しゃああ》たるもので、
「どう致しやして、衣食足って礼節を知る、古人はいいところを言いやした、鐚儀が不肖ながら食物は今朝アブ玉で、とんとお腹いっぱいこしらえて参じやした、食の方は事足りて余りあり、衣の方に於きましては、これごらんあそばせ、上着が空色の熨斗目《のしめ》で日暮方という代物《しろもの》、昼時分という鳶八丈《とびはちじょう》の取合せが乙じゃあございませんか。それにこれ下着が羊羹色《ようかんいろ》の黒竜門、ゆきたけの不揃《ふぞろ》いなところが自慢でげして、下がこうごうぎと長くて、上へ参るにつれてだんだんに短く、上着は五寸も詰った、もえるのツンツルテン、舶来飛切りでげすよ、羽織がこれ萌黄《もえぎ》の紋綾子《もんりんず》で、肩のあたりが少々|来《きた》っておりまする」
「うむ、なるほど、田舎の貧乏医者という衣裳づけだ、熨斗目が利いているよ」
「かくの通り、衣食足って礼節は、本来ビタの地《じ》にあることなんでげす、現に殿様の御身の上の栄枯盛衰にかかわらず、かくまで忠義の志をかえぬことによって充分に御賢察が願いたい――衣も足り、食も足り、懐ろ工合の方も、当節は異人館出入りのために外貨獲得てやつが成功いたしやして、至極豊かでござりやす、かくて最後に来《きた》るものが風流――その風流の御相談に参じやした」
「まあ、言ってみろ」
「拙《せつ》のお出入りの旦那に三一小僧《さんぴんこぞう》というのがござりやして、その旦那が近頃、和歌に凝り出したと思召《おぼしめ》せ」
「和歌――歌だな」
「いわゆる、みそひともじなんでげす。その旦那が次のような歌をお詠《よ》みになりまして、鐚、どんなもんだ、点をしてくれろとおっしゃる、内心ドキリと参りましたね、実のところ、鐚も十有五にして遊里にはまり、三十にして身代をつぶした功の者でげして、その間《かん》、声色、物まね、潮来《いたこ》、新内、何でもござれ、悪食《あくじき》にかけちゃあ相当なんでげすが、まだ、みそひともじは食べつけねえんでげすが、そこはそれ! 天性の厚化粧、別誂《べつあつら》いの面《つら》の皮でげすから、さりげなくその短冊を拝見の、こう、首を少々横に捻《ひね》りましてな、いささか平貞盛とおいでなすってからに、これはこの新古今述懐の――むにゃむにゃと申して、お見事、お見事、ことに第五の句のところが何とも言えません、と申し上げたところが、ことごとく旦那の御機嫌にかなって、錦水を一席おごっていただきやしたが、実のところ、鐚には歌もヌタもごっちゃでげして、何が何やらわからねえんでげす、後日に至りやして、三一旦那から再度の御吟味を仰せつかった時にテレてしまいますでな、どうか、その御解釈のところを篤と胸に畳んで置きてえんでございます。これがその三一旦那から頂戴に及んだ短冊でげして」
「そうか、貴様が贔屓《ひいき》になる三一旦那というのが和歌を詠んで、貴様に見せた、和歌の和の字も知らない貴様も、旦那のものだから無性に褒《ほ》めて置いたが、中身は何だか一向わからん、それで後日|糺問《きゅうもん》されると困るから、一応おれに見て講義をして置いてくれというわけだな」
「まさに仰せの通り――鐚儀、お弟子入り、お弟子入り」
「どれ見せろ」
と神尾主膳が、鐚の手から短冊を受取って、それを上から読みおろしてみると、
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かながはで、蒸気の船に打乗りて、
一升さげて、南面して行く
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「何だ、これは」
神尾が、甚《はばはだ》しく不興な面をして、短冊をポンと抛《ほう》り出したものですから、鐚があわててこれを拾い上げて後生大切に袖で持ち、
「めっそうな! 大尽《だいじん》のお墨附! めっそうな」
仰々しく取り上げて、恨み面にじっと主膳の面を見上げていると、
「貴様の贔屓を受けている三一旦那とやらは、いったい何者だ!」
主膳が、怒鳴りつけるように一喝《いっかつ》したその調子が変ですから、鐚があわてて、逃げ腰になりました。
「三一旦那、当時舶来、エレキ屋の三一旦那! 大したもんでげす、商業界きってのお大尽でげす」
「貴様にとっちゃ旦那かお大尽か知らないが、その歌のザマは何だ、そんなものが、人に見せられるか、人を愚弄《ぐろう》するにも程のあったもんだ」
「イケやせんか、なっとりゃせんか、和歌の法則から申しますと」
「馬鹿、和歌も詩歌もあるものか、そんなものを、よく人中へ出したもんだ、こっちへよこせ、揉《も》みくちゃにして火鉢にくべてやる」
「じょ、じょうだんでげしょう、ドル旦のお大尽のお墨附! 愚拙が家の家宝――何とあそばします」
神尾の余憤は容易に去らない。冗談にしろ、和歌を持って来たから直してくれとか、評をしてくれとかいうことになると、なあに、この野郎がもたらすものだと軽蔑しながらも、その風流のやや向上気味なるを取らないでもないが、もたらしたその三一旦那《さんぴんだんな》の歌というやつが、茶漬にもならない代物《しろもの》だから、主膳もおのずから不興になったので、その不興が相当真剣になっているので、鐚《びた》も多少怖れている。
「そりゃ、あなた、お大尽と申しやしたところで、根が町家の商人のことでげすから、高家《こうけ》歌よみ家のようなわけには参りません、町人のお大尽でも、このくらいの風流があるというところも買っていただかなけりゃ。あなた、三一旦那は定家卿《ていかきょう》でも、飛鳥井大納言《あすかいだいなごん》でもございません、そう、殿様のように頭からケシ飛ばしてしまっては、風流というものが成り立ちません、第一、初心のはげみになりませんから、何とか一つ、そこは花を持たせていただきてえもんでござんして」
「黙れ黙れ! 言語道断の代物だ――笑って済むだけならまだいいが、見て嘔吐《へど》が出る、ことに、第五句のところ……」
「そこでげす!」
「そこが、どうした」
「鐚がそこを賞《ほ》めやしたところが、ことごとくお大尽のお気にかないました」
「馬鹿野郎!」
「これは重ね重ねお手厳しい、そういちいち、馬鹿の、はっつけ[#「はっつけ」に傍点]のと、あくたいずくめにおっしゃっては、風流が泣くではございませんか、第一殿様の御人体《ごにんてい》にかかわります、お静かにおっしゃっていただきてえ」
「その第五句の南面という言葉がはなはだ穏かでない、町人風情のかりそめにも用うべからざる語だ」
「へえそんなたいそうな文句を引張り出したんでげすか」
「南面というのは天子に限るのだ、この文句で見ると、三一旦那なるものは、何か蒸気船に乗って南の方へでも出て行く門出のつもりで、こいつを唸《うな》り出したものだろうが、南面して行くとは、フザケた言い方だ、勿体ないホザき方だ――ただ笑うだけでは済まされない、不敬な奴だ!」
「へえ――大変なことになりましたな」
「これ、ここへ出ろ、鐚、おれはこう見えても――物の分際ということにはやかましい、痩《や》せても枯れても神尾主膳は神尾主膳だ、鐚は鐚助――三一風情がドコへ行こうと、こっちは知ったことではないが、南面して行くとホザいたその僭越が憎い! おれは忠義道徳を看板にするのは嫌いだが、身知らずの成上り者めには癇癪が破裂する、よこせ!」
と言って神尾主膳は、鐚の油断している手から大事の短冊をもぎ取って、寸々《ずたずた》に引裂いて火鉢の中へくべてしまい、
「あっ!」
と驚いて、我知らず火鉢の中をのぞき込む鐚の横っ面を、イヤというほど、
「ピシャリ」
「あっ!」
鐚助、みるみる腫《は》れ上る頬っぺたを押えて、横っ飛びに飛んで玄関から走り出しました。
六十五
ビタをハリ飛ばしておいてからの神尾主膳は、その足で台所へ行って、膳棚の上から備前徳利を一つ取り下ろして振り試みると、まだカタコトと若干の音がする。それをそのまま提《さ》げて、次に相馬焼の癖直しの湯呑のようなのを取り下ろし、再び以前の書斎へ戻ってホッと一息つき、その備前徳利から、ちょうど相馬焼に一ぱい分残った残滴を酌《く》んで、咽喉《のど》をうるおしながら、以前の書物の丁を追いました。
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「アル時、橋本庄右衛門ヘ妙見ノ帰リガケニ行ッタラ、殿村南平トイウ男ガ来テ居タカラ、近附《ちかづき》ニナッタガ、ソノ男ガ云ウニハ、
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