戦略から言っても、外交から見ても、策の得たるものでないことがわかるから、そこで、前門の狼とは暫く妥協を試みて置いて、下流の乞食から退治にかかろうとする魂胆であるらしい。
 そう言いっぱなしにして、相手の返答は聞かず、早くも橋の袂《たもと》をめぐって、河原をひた走りに走りました。もちろん、めざすところの目的は、月夜のお菰《こも》の川渡りであります。彼等の二個のお菰は、斯様《かよう》な鼻利きのすばらしい猟犬に嗅ぎつけられた運命のほどを知るや知らずや、悠々閑々として、月夜に布袋《ほてい》の川渡りを試みて、誰はばかろうとはしていない。いい度胸です。でなければのほほんの無神経です。
 且つまた、橋の上に取残された狼にしてからが、頼みも頼まれもしない藪《やぶ》から棒の送り狼に、待っていてくれと注文されて、その注文どおり、馬鹿な面をして待っていてやる義務もあるまいではないか。

         三十三

 一方、視野を転換して、のんきな月夜の川渡りの二人のお菰さんの身の上に及ぶ。
 二人とも、いい図体をした屈強の男ざかりでありながら、ドコぞ箍《たが》がゆるんでいればこそ、今日こうして菰をまとっている。
「いい心持だなあ、月夜の川渡り」
「ほんとにいい心持だよう、月夜の布袋《ほてい》の川渡り」
「月夜に釜を抜かれるということがあるが、その解釈を知っているか」
「知らん――いろはガルタには、わかったようでわからんのが幾つもある、我々いい年をしながら、いろは[#「いろは」に傍点]さえ充分にはわかっとらん」
「況《いわ》んや天下国家のことや」
「なんにしても、月夜の布袋の川渡りはいい」
 しきりにこの二人が布袋の川渡り、布袋の川渡りということを口にしているのは、自分たちが菰を被《かぶ》っている頭の上に、身上道具の一切合財《いっさいがっさい》をいただいているからであろうとは思われる。身上道具の一切合財といっても、鍋釜で尽きているらしい。鍋釜を所有していれば、中に入れるものは、今日は今日、明日は明日で、絶対他力まかせになっているところに彼等の身上がある。そこで、月夜に釜を抜かれるという「いろはガルタ」が不意に飛び出したのも、つまり、頭上にいただく鍋釜から起った聯想らしい。
「乞食を三日すれば忘れられん――というが、まさに正真の体験だ」
「そうだ、この趣味がわかると全く、人間並み生活などはばからしくて出来るものではない、ただ人間並みを廃業して、ここまで来る試験地獄がつらい、ここへ来てしまえば、何という清浄にして広大なる天地だろう」
「まあ、あんまり惜しいから、そう川渡り急ぐなよ、ゆっくり月をながめながら川を渡ろうではないか、この良夜をいかんせんというところだ」
「月は天にあり、水は川にあり、いい心持だ」
 名は高いけれども、鴨川は大河ではない。ちょろちょろ水を渡る程度の川渡りも、今晩は無下《むげ》に渡りきるのが惜しくてたまらないらしい。そこで、中流というとすばらしいが、飛べば一ハネの川の真中で、わざと二人は歩みを止めてしまい、空の大月を打仰いで、
「清風明月一銭の買うを須《もち》いず――と、たぶん李白の詩にあったけな、一銭のお手の中を頂くにも、人間となると浅ましい思いをするが、この良夜を無代価に恵与する天然の贅沢《ぜいたく》はすばらしいものだ」
「その天然の贅沢を、無条件で受入れ得る我々の贅沢さは、また格別だなあ、事実、乞食にならんと、本当の贅沢はできんものだなあ」
「そうよ、うんと欲張って我が物にしたければ、袋を空にして置くに限るよ、物があると誰も入れてくれねえ、天下将相になって見給え、志士仁人になって見給え、夜の目もロクロク眠れずに、やれ国のためだ、人のためだと血眼《ちまなこ》になっている、この天与の恩恵豊かなる清風明月が来《きた》りめぐっても、火の車を見るようにしか受取れない奴等こそ憫《あわ》れむべきものだ」
「大燈とか、大応とかいう坊主が、そこらの橋の下に穴を掘って、そこを宿として園林堂閣へ帰りたがらなかったというが、それはわれとスネたんではないな、そういう生活がむしろ自然なんだから、彼等はそれを貪《むさぼ》り好んで生きている、世間の馬鹿共が見ると、それが、大徳の、達観のと渇仰《かつごう》する、見方が違っているんだ」
「そうだ、トモカク坊主でも大物になると横着千万なものでな、自分は楽をしていながら、世間からは難行苦行の大徳であり、人生の享楽を抛棄《ほうき》した悟道人のように見えるが、ありゃみんな道楽だね」
「まず、そんなもんじゃ、乞食の六という奴の詩に有名なのがある」
「そうだそうだ、畸人伝かなにかにあったっけ、あれだけの詩を作れるくせに乞食している横着者、まさに三十棒に価する、その詩を一つ……」
 一人が、そこで、詩を吟じ出してしまいました。
[#ここから2字下げ]
一鉢千家飯
孤身幾度秋
不空又不色
無楽還無憂
日暖堤頭草
風涼橋下流
人若問此六
明月浮水中
[#ここで字下げ終わり]
 これを、高らかに和吟して、「一鉢千家の飯《いひ》、孤身幾度の秋、空《くう》ならず又|色《しき》ならず、無楽|還《また》無憂、日は暖かなり堤頭の草、風は涼し橋下の流、人|若《も》しこの六を問はば、明月水中に浮ぶ」と吟じ了《おわ》ってから、この六なるものの事蹟に就いて語り合いました。
 これは昔、この川の岸に一人の乞食の行斃《ゆきだお》れがあったから、それを水葬してやろうと、ある坊さんが抱き起して見たら、乞食の懐ろの中に、この詩が書いて入れてあったということ。
 なるほど、遠目で見たのでは、単なる求食人種の移動に過ぎないが、ここでこの話しぶりを聞いていると、以ての外。こいつらも世を欺く横着もの、大応大徳のそれに匹敵すべきか、乞食の六や桃水尊者《とうすいそんじゃ》と比ぶべきや否やは知らないが、トニカク、乞食を生きるものでなくて、少なくとも乞食を楽しむことを解している。それもどうやら、今日昨日の附焼刃らしいが、それでも楽しむことを知ることに於て、一応筋は立った話をしている。これを遠目に睨《にら》んだだけで、直ちにうさんと眼をつけた源松の眼も高いと言わなければならない。
 これ別人ならず、よく見れば、前なる背の高い方のが南条力、後ろのやや低い方のが五十嵐甲子雄――毎々お馴染《なじみ》の二人の成れの果て――果てというにはまだ間もありそうだが、二人の変形であることは疑いがないのです。

         三十四

 この南条、五十嵐の両壮士が、ある時は志士の如く、ある時は説客の如く、ある時はスパイの如く、ある時は第五部隊の如く、全国的に要所要害を経歴して来たことは、ほぼ今までのところに隠見している。
 ついさき程は叡山四明ヶ岳の上で、大いに時事を論じていたと見たが、もう京洛《けいらく》の真中へ入り込んで、こんな行動をとっている。また油断も隙《すき》もならぬ者共です。
 しかし、今晩のような夜空に、こんな風《なり》をして、ここらを彷徨《ほうこう》するということは大なる抜かりで、早くも轟《とどろき》の源松の注視を受けたということは、大なる不覚と言わなければなりません。
 こうして二人は河原を三条の橋の橋詰まで来ましたが、橋に近くなると、彼等もズルイ、急に沈黙を守り出して、木と、茅《かや》と、石と水との中に没入し、人をしてその痕跡を認めしめない芸当は心得ていたようです。
 揚雲雀《あげひばり》というものは、中空高く囀《さえず》りつつ舞っているが、己《おの》れの巣へ降り立とうとする時は、その巣より遥かに離れた地点へ着陸して来て、そこから麦の株や、畦《あぜ》の間を、若干距離のあいだ潜行して来て、はじめて己れの巣にありつくものだが、この二人の壮士も、その鳥跡に学ぶところあって、川渡りの地点は巣に遥かに遠いところであったが、そこから橋の袂の元巣までたどりついた間の行動は誰にもわかりません。
 しかしまた、上手な雲雀取りは、右の雲雀の着陸点をまず認めておいて、そのあとをひそかに追ったり、前路を考えて、これを要したりすることもあるように、轟の源松も、いったんは橋から河原へ飛び下りたが、それより後の行動は、月にも水にも知らせません。しかし、程経て、二人の壮士は橋の袂の穴っ子へ到着しました。
 その橋の袂の穴っ子こそ、彼等の住所であって、その先祖をたずぬると、大燈国師伝以来の由緒のあるところです。二人がこの穴っ子へトヤについてしまった頃を見計らい、外でそろそろと網を張っているものがあります。言わずと知れた轟の源松で、もうこうなればこっちのものと、網を張りながら、ニタリと笑って橋の上を見上げました。
 橋の上の一方に待たして置いた送り狼は、いかにと見上げたものでしょうが、前に言う通り、この男の要求通りに、馬鹿な面《かお》をして、橋の上に待っていなければならない義務も責任もないことは、先方よりこちらがわかっているから、二兎を追うことはできない道理だから、一方は一方で一時は取逃がしても、やむを得ない。比べてみると、こちらの番《つが》いの獲物《えもの》の方が実入《みい》りがありそうだ。あれはあれで、出直して突留める分には、相手が不自由な身だから手間ヒマはいらないはずだが、芹沢鴨を名指したり、伊東や近藤とも相当|面馴染《かおなじみ》があるらしいところを以て見ると、ただの鼠ではないが、新撰組や御陵士頭に属するほどの者でないことは、その言語挙動でわかりきっている。当座の口実に、新撰組や御陵士頭の名を仮りてみるだけのもので、最後に突きつめたお宿許の名乗りに、高台寺月心院の名を指したが、それとても、果して月心院で受けつけられるかどうかわかったものではない。とにかく、島原の行動と言い、その後の応対と言い、捉まえどころが有るようで全くない。これまた近ごろの珍しい獲物だと、源松はほほ笑みながら、近いうちに手の内を見せてやると、いささかの得意で橋の上を見上げると、どうでしょう、命じて置いた通りの地点、欄干を背にしたところに、たしかに待っている。よもやと眼を拭って見直したが、間違いがない。
 やあ、やっぱり、世界には馬鹿正直な奴がある。源松を源松とちゃんと心得ているはずなのに、馬鹿な面をして、ああしておれの帰るのを待っている。呆《あき》れたものだと、源松も口をあいてしまいました。
 だが、待てよ、一概に馬鹿正直扱いもできますまい。真実あれは眼が見えないのだから、意地と場合で島原をひとり抜けをして出て来たが、出てみれば、西も東も動きの取れない身なのだ。そこへ、おれがぶっつかったものだから、しらをきって挨拶をしながらも、実はおれを頼りにして、引廻されるふりをして引廻すつもりで来たのかも知れない。送り狼と知りつつ、送らせるところまで駕籠賃《かごちん》なしで送らせて、どろんと消えるつもりか知らん。一枚上を行った図々しさだか、また事実、ひとりでは動きが取れないから、ああしてこの源松の帰りを待っているのか、なんにしても微苦笑ものだと源松は呆れたのだが、こうなってみると、自分もまた、悧口《りこう》なようで、なんだか馬鹿にされている、上手な猟師のつもりで、一方の兎を思いきって、一方だけ確実に手に入れる策戦に出でたことの思いきりを、我ながら腕前と信じていたのが、ここへ来て見ると、獲物はやっぱり二つで、猟師は自分一人だ、獲物をせしめたと思った猟師が、かえって獲物にせしめられているような感じがしないでもない。
 そこで、源松としては、またしても、橋上と橋下と二つの方面に、一つの注意を張らなければならない。ロシヤと手を握って英国に当る策戦の裏をかかれたような気持がしないでもない。
 そこで、張網の地点から、二つの方面に注意を向けていると、またも意外、こちらはいま巣へもぐり込んだばっかりの二人のお菰《こも》が、相変らず剣菱《けんびし》の正装で、のこのこと這《は》い出して来ました。

         三十五

 おやおやと見ているうちに、頭にいただく鍋釜は穴の中に安置して置いたと覚しく、手ぶらで、第一公式のお菰をひらつかせて、の
前へ 次へ
全41ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング