無事に暁に至りました。その時、犬の吠える声を聞くと、今まで熟睡していた米友が、ガバと身を起して、
「今、犬が鳴いたなあ」
 犬ならば吠えるというのが正格であろうけれど、鳴いたと口走ったのは、それと前後して鶏の鳴いたその混線のせいかも知れません。次の間に寝ていた不破の関守氏も、もうこの時分、すっかり覚めておりました。
「誰か来たようだよ」
「いま犬が吠えたねえ、おじさん」
 誰か来たか来ないか、そんなことは注意しないで、犬の音声だけが特に気がかりになるらしい。
「吠えたよ、だから、誰か人が訪ねて来たと思っているのだ」
「今の犬は、ただ犬じゃあない」
と米友は、ただこれ、犬にのみ執着している。
「ただ犬じゃねえ」
と不破の関守氏は、隣室から米友の口真似《くちまね》をして、
「すばらしい犬だ、起きたら君に見せてやる、それは二つとない豪犬だ」
「二つとねえ犬……」
「そうだ、朝の眼ざましにはあれを見てみるかい」
「早く見てえな」
 米友は、たまり兼ねて、ハネ起きて、その犬を見たがる気配を関守氏が感じたものですから、
「まあ、待ち給え、逃げろと言ったって逃げる犬じゃない、起きてから、ゆっくり見給え」
「ただ犬じゃねえ、腹で吠えてやがる」
と米友は、半身を蒲団《ふとん》から乗出して、その犬の声にすっかり執着するが、不破の関守氏は犬の吠える声よりも、その吠える声によって暗示される何者かの来訪、それにしきりに注意を傾けているようです。
 だが、暫くして、犬の吠える声は全く止まり、鶏の鳴く声だけが連続して聞えました。犬の吠ゆるは非常をそそるけれども、鶏の鳴く音は、平和と、希望を表わすこと、いずこも変りません。
 非常の示唆《じさ》たる犬の警告が止んだのは、失火の静鎮から警鐘が鳴りをひそめたと同様で、つまり、何物か一応、外をうかがったものがあるにはあるが、この警告に怖れをなしたと見えて、直ちに引取って、危害区域外に立去ったから、この屋敷は安全地帯に置かれた。代って、平和の使徒が光明の先触れをしたまでの段取りで、かくて東天紅《とうてんこう》になり、満地が白々と明るくなりかけました。
 不破の関守氏も朝寝坊の方ではないが、米友ときては、眼がさめたら、じっとしてはおられない。関守氏は、やおら起き出でて、筧《かけひ》の水で含嗽《うがい》を試みようとする時、米友はすり抜けて、早くも庭と森の中へ身
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