これにて御免――」
 不破の関守氏は弁信を置きっぱなしにして、自身のわび住居《ずまい》へ帰ってしまいました。
 お銀様の経机に向った周囲を見ますと、幾つかの封じ文が、右と左に置かれてある。机の上にも堆《うずたか》いほどの手紙が載せてある。察するところ、この手紙類を右から取っては左へ読みついで、ひたすらそれに読み耽《ふけ》っていたところらしい。弁信が来たものですから、手紙の方はそのままにして置いて、お茶の立前《たてまえ》にかかりました。
 お銀様のお手前は本格であります。珍しくも手ずからお茶を立てて、弁信法師をもてなそうとするのであります。
「一つ、召上れ」
 ふくさに載せて、わざわざ弁信の前に置かれたものですから、この法師もいたく恐縮しました。
 差出された茶碗を見ると、これも光悦うつし、いや、うつしではない、光悦そのものの肉身の手にかけて焼き上げたもの――むやみに、うつしうつしと口癖になってしまってはお里が知れる。
「これはこれは、痛み入った御接待にあずかりまして」
 例によって物堅い弁信法師の辞儀、お手前ともお見事とも言わないで、御接待と言いました。そうしてその言葉にかなう恭《うやうや》しい手つきで、茶碗を取って押戴いて二口飲みました。弁信法師も、お茶の手前の一手や二手は心得ているに相違なく、手振《てぶり》も鮮かに一椀の抹茶《まっちゃ》を押戴いて、口中に呷《あお》りました。
「お願いには、もう一椀を所望いたしとうござります」
 お銀様はそれを喜んで、更に一椀を立てて弁信に振舞いました。
 それを快く喫し終った弁信が、澄ました面《かお》を、いっそう澄ませて、
「たいそう落着いたお住居《すまい》のようでございますが、いつこれへお越しになりましたか、そうして、以前どなた様のお住居でございましたか」
「これが弁信さん、山科の光悦屋敷と申しまして、今度、わたしが引取ることになりました」
「あ、これがお話に承った光悦屋敷でございますか、そうして、居抜きのまま、そっくりあなた様がお引取りになりました、それは結構なことでございます、おめでたいことでござります」
「父が欲しいと申しましたが、わたしが引取ることになりました」
「ああ、そのお父様のことでございます、はるばる甲州路から京大阪の御見物と申すは附けたりで、実はあなた様を見たいばっかりで、おいであそばしたそうでござりまするな
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