まするにせよ、家々の定紋のついた提灯に火を入れることが礼儀でございまして、礼儀は即ち用心でございます」
「そういうわけなら、大谷風呂で借りた提灯を点《つ》けて歩くとしよう」
そこで米友が、腰にくくりつけていた一張の弓張提灯を取りおろして、丁々《ちょうちょう》と点火にとりかかりましたが、手器用に火がつくと、蝋燭《ろうそく》が燃え出し、鎖を引くと蛇腹《じゃばら》が現われて、表には桐の紋、その下に「山科光仙林」の五字が油墨あざやかに現われました。
六
提灯に火をつけたのも、その持役も、同じく米友でありましたけれども、この提灯持は、世間常例の如く先に立つことをせず、一足あとから、例によってはったはったと歩いて行きます。
如法暗夜ではない、如法朧夜といったような東海道の上り口を「山科光仙林」の提灯が、ゆったりゆったりと渡って行く。
逢坂、長良《ながら》を後ろにして、宇治、東山を前にした山科谷。しばらくすると米友が、はったと足の歩みをとどめて、
「やあ、何か唄が聞えるぞ」
と、耳朶《みみたぶ》の後ろから手笠をもって引立てて見ました。
「そうですね」
米友の耳に入るほどの音声で、その以前に弁信が聞きとめていないはずはありません。
「盆踊りかね」
「今はその季節ではありませんね」
「念仏講かな」
「そうでもないようです」
「祇園囃子《ぎおんばやし》てやつかな」
「そうでもありません」
「鳴り物が入ってるな」
「はい」
「やあ、突拍子《とっぴょうし》もねえ、高い声で歌い出しやがった――聞き取れるよ、文句が聞き取れるよ、じっとしていてみな、おいらの耳でも立派に、歌の文句が聞き取れるよ」
米友は、そこに暫く立ち尽して、耳朶に手をあてがったまま、心耳を澄まそうとしました。弁信も否み兼ねて、同じように立ちどまって、米友が歌の文句を耳にしかと聞き納めるのを待っている。
ややしばし、佇立《ちょりつ》して心耳を澄ました米友が、釈然として次の如く、高らかにその歌詞と音調とを学びました。
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宮さん
宮さん
お馬の前の
ピカピカ光るは
何じゃいな
あれは朝敵
征伐せよとの
錦の御旗《みはた》じゃ
ないかいな
トコトンヤレ
トンヤレナ
[#ここで字下げ終わり]
「威勢のいい唄だよ」
米友が附加して言いますと、弁信は先刻心得面に、
「あれは軍歌とい
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