きませぬ、そのところを、あなた様だけが斯様《かよう》に夜参りまであそばします、その御奇特なことに存じやして」
 尼さんは重ねて、かく悦びごとを言いました。その言葉によって察すると、ここに仏神のいずれかの信仰の道場があって、その名を鬼頭なにがしと呼んだかな、その道場の前へ竜之助が到りついたのである。無論、この男がなんらかの信仰心があって到着したわけではない。心はうつろにさまようて、ついここへ来てしまったのだが、先方はそれを、特にここを目ざして参詣に来た御奇特な信心者のように受取ってしまったのであります。しかし、そう受取ったならば、そう受取らせて置いて、あえて苦しいとも思わない。どちらへ受取られてみたといって、身に直接の利害が及ばない範囲に於ては、弁明に及ぶまいが、それに相当する挨拶は返さなければなるまい。
 ところが、それも先方がうまく引取ってくれるのでした。
「さあ、どうぞ、これへお越しやして、朝霧の妄執《もうしゅう》のために一片の御回向《ごえこう》を致し下さいませ、重清がためにもこの上なき供養となりまするのでござります、いやもう御奇特なことで」
 堂守の独《ひと》り合点《がてん》は早口調で、たださえよくわからないが、その早口のうちに聞いていると、朝霧の妄執のために一片の御回向なにがしとやら言ったな、朝霧! というのは、島原で雑魚寝《ざこね》をしたくすぐり合いの雛妓《すうぎ》の一人で、最後まで留り残されたあれだな、いや、最後に拾い物をしたあの子供の名が朝霧といったな、これが、もはや妄執となって、一片の御回向下の人にされているとは、さりとは気が早過ぎる。
 いや、こっちが気が早いのだ、朝霧といったところで、天下に一人や二人ではあるまい。あの時の朝霧は罪のない舞子で、ここで回向をされようというのは罪業深い過去仏のことだろう。
 そんなことを考えて、竜之助は、ともかくも、この声のする方へ近づいて行くと、
「これはこれは、あなた様は、いずれにおすまいでいらせられまするか」
「高台寺の月心院に」
「ええ、何と仰せられました」
 堂守の尼が聞き耳を立てました様子ですから、竜之助は重ねて、
「月心院の庫裡《くり》に、しばらく世を忍んでおりまするが、今晩、月がよろしいようですから、ついうかうかと出て参りました」
「まあ、その月心院の庫裡と申しますのを、あなた様は御承知の上でおすまい
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