意気との戦いなのだ、意気が意気を圧倒したのだ、『人生意気ニ感ズ』というのが本当だな、人が一命を捧げて悔いない場合はただ意気あるのみだ、近藤勇は意気の男だ、彼は徹骨徹髄、意気を以てうずめている、名利それ何するところぞ!」
斎藤一は極端なる近藤讃美から、腕を扼《やく》して悲歌慷慨の自家昂奮に堪えやらず、滔々《とうとう》としてまくし立てる。ここに至ると、眼に相手を見ざること対談者と変らない。
「忠と孝とは冷やかな名分だ、ここに意気に殉ずる血脈が加わればこそ、冷やかなる忠と孝との名分が生きて来る、意気のない忠が何だ、意気のない孝が何だ」
彼は最初に涙を下した忠孝の名分のおごそかなるをも、ここに至って、冷やかなる一片の名分と見なして、意気の讃美論に転換してしまった。
「当代、意気に生きているものは近藤勇だ、彼は鬼ではない、男児の生命たる意気に生きている男だ、彼を鬼と見る奴は眼のない奴だ、天下は盲《めくら》千人の世の中だ、やあ失敬失敬、君に当てつけて言ったわけではないから、悪くとってくれるなよ」
と、ここに斎藤もわずかに余裕を得て、いささか弁解に落つるの変通を示すことができたのは、眼のない奴とか、盲千人とか言ったが、偶然にも、最初から、前にいて神妙な聞き役となって、自分が昂奮しても昂奮せず、悲憤しても悲憤せず、最初の通りに、唐金《からかね》の獅噛火鉢《しがみひばち》の縁に両肱《りょうひじ》を置いて、岩永左衛門が阿古屋の琴を聞いている時と同様の姿勢を崩さない当の談敵《はなしがたき》が、眼前に眼をなくしていることに、ふいと気がついたものだから失笑し、たあいなく釈明に落ちてしまったが、また猛然として気焔が盛り返して来て、
「それはまだいい方なのだ、一層下等な奴になると、彼が金銭のために働いている、利禄に目がくらんで盲動しとる――」
またしても目前、盲動と言い、差合いが眼前にあることに今度は気がつかず、躍起となって、近藤のために多々益々《たたますます》弁ずるという次第であります。
三十八
「なるほど、今日の近藤勇と、昨日の近藤勇とを比べて見ることしか知らぬやからは、彼が、さも過分の立身出世でもしたかの如く唇を翻す、将来もまた、彼がこの名聞利得《みょうもんりとく》の野心のために――殺人業を請負っているかの如く曲解したがる奴があるが、なるほど、彼は武州府中在の土
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