けて推参を致しましたのは、二人の狭い胸では、どうしても理解の届かないものがございますので、あらたかな御庵主様の御易面《ごえきめん》から見て、御判断を賜わりたいのでございます」
 二人が、また声を合わせてかく言う。そこでお銀様が、ははあ、ではこの男女は、わたしを女易者だと信じてやって来たのだな、若い分別の二人の狭い胸では解釈のしきれない迷路に立って、易者の門を叩くということは有りそうなことだ、だが、戸惑いにも程があるという気位になって、お銀様が夢の中にも笑止の思いを致しました。
「わたしには、易はわかりません、易によって判断などは思いもよらないことで、本来、易というものは、人間の身の上判断をするように出来ている文字ではないのです」
とお銀様の言うことは、理に落ちているんだが、二人はそういう理解を聞きに来たものではないのです。
「お聞き下さいませ、わたくしたち二人の者の身の上と申しまするのは……」
 ここで二人の身の上話を話し出されてはたまらない、というような気分にお銀様が促されまして、
「お身の上をお聞き申すには及びませぬ、現在のあなた方の立場と、本心の暗示とを承ればそれでよろしいのです」
 お銀様にこう言われて、若い男女はたしなめられでもしたように感じたと見えて、
「恐れ入りました、現在のわたしたち二人は、死ぬよりほかに道のない二人でございます、ねえ、豊さん、そうではありませんか」
「あい、わたしは、お前を生かして上げたいけれども、こうなっては、お前の心にまかせるほかはありませぬ」
と女から言われて、男はかえって勇み立ち、
「嬉しい!」
 それを女はまたさしとめて、
「まあ、待って下さい」
「いまさら待てとは」
「ねえ、真さん、死ぬと心がきまったら、心静かに落着いて、もう一ぺん考え直してみようではありませんか」
「ああ、お前は、わたしと一緒に死ぬと誓いを立てながら、その口の下から、もうあんなことを言う」
「いいえ、死ぬのは、いつでも死ねますから、死ぬ前に申し残したいことはないか、それをもう一ぺん、思い返して下さい」
「そういう心の隙間《すきま》が、もうわたしは怨《うら》みです、申し残したいことがあれば、どうなるのですか、わたしはもう、この世に於ての未練は少しもありませぬ、片時《かたとき》も早く死出の旅路に出たい」
「それでも、もし、思い残したことが一つでもあっては、その冥路《よみじ》のさわりとやらになるではありませんか」
「もう知らない、もう頼まない、思い直せの、考え直せのと、ゆとりがあるほど、この世に未練があって、死出のあこがれがないのです、そんな水臭い人、もう頼みませぬ」
「聞きわけのない、真さん、たとえ一つでもわたしが姉、目上の言うことは聞かなければなりませぬ」
「いいえ、年がたった一つ上だとて、夫婦《めおと》の固めをした上は、お前は女房で、夫はわたし、女房というものは、身も心も、みんな夫に任せなければなりませぬ、わしが死ぬというからには、お前も死んでくれるのはあたりまえ」
「真さん、お前と、わたしと、いつ夫婦《ふうふ》の固めをしましたか」
「あれ、まだあんなこと、たった今、お前の命をわしにくれると言うたことを、もう忘れて」
「それは違います、真さん、わたしはお前を好きには好きだけれど、わたしの夫と定めた人は別にあることを、お前の方が忘れている、わたしは、定められた許婚《いいなずけ》の人を嫌って、お前といたずらをしたのです」
「それほどお前、いたずらがいやなら、その定められたお方の方へ行っておしまい、その了見なら、少しも一緒に死んでもらいたくない、一人で死にます、お前の真実心を思うから、死ぬ前に一度会いたいと、ここまで来たのは、わたしの愚痴でした」
「それでも、お前一人が死ぬというものを、わたしが見殺しにできましょうか、昔のことを考えてみて下さい、ねえ、真さん」
「それは、わしの方で言うことです、昔のことを考えれば、いまさらお前が、定まった夫の、許婚のと言われた義理ではありますまい」
「ああ言えばこう言う、お前の片意地――もう聞いて上げませぬ、おたがいにいさかいをするのはもうやめましょうね、こっちへいらっしゃい、黙って死んで上げますから」
「わしも、もう恨みつらみは言い飽きた、黙って死のう、黙って死なして、ね、豊さん、わたしの大好きなお豊さん」
「よう言うてくれました、わたしの大好きな大好きな真さん、さあ、こっちへいらっしゃい、一緒に死んで上げるから」
「わしがお前を先に死なそうか、お前がわしを一思いに殺してたもるか」
「後先を言うのが水臭い、いっしょに死ぬのではありませんか」
「ああ、嬉しい」
「お前、ホンまに嬉しいか」
「離れまいぞ」
「離れまじ」
「未来までも」
「七生までも」
「さあ、お前、これでも生きたいと言わしゃるか」
「ああ、死にたい」
「あれ、真さん、そこは深い」
「深いところがいいの」
「お前ばかり先に深いところへいって、わたしだけが残されるようで、いや、いや」
「そんなら、お前、先にお進みなさい」
「後先を言うのではないはず、後へ引こうにも、先へ行こうにも、二人の身体《からだ》は、この通り結えてあります、動けるなら動いてごらん」
「こうなっても、いやならいやと言うてごらん」
「もう知らない」
「嬉しい、く、く、苦しい」
「わたしも苦しい、水――」
「水――」
「二人は苦しいねえ、真さん」
「二人は嬉しいねえ、豊さん」
 痴態を極めた男女の姿を眼前に見ているお銀様。思案に余って、身の上判断を請うと言って、わざわざ人の寝込みまで襲いながら、人の見る眼の前で、このザマは何だ、相談に来たのではない、心中に来たのだ、しかも、このわたしというものの眼前で、思いきった当てつけぶり、何という愚かな者共。いやいや、わたしが徒然《つれづれ》を慰めんがために、わざわざ芝居をして見せに来たと思えばなんでもない。叱責と嘲《あざけ》りの唇を固く結んで、お銀様が、彼等の為《な》す痴態の限りを為し終るまでながめてやろうと、白い眼に睨《にら》んでおりますと、行燈が消えました。
 闇かと見ると、その行燈の消えた隙間から一面に白い水――みるみる漫々とひろがって、その岸には遠山の影を涵《ひた》し、木立の向うに膳所《ぜぜ》の城がかすかに聳《そび》えている。昼にここから見た打出《うちで》の浜の光景が、畳と襖一面にぶち抜いて、さざなみや志賀の浦曲《うらわ》の水がお銀様の脇息《きょうそく》の下まで、ひたひたと打寄せて来たのでありました。
 その湖のまんなかに、いま見た二つの物影が、浮きつ沈みつもがいている。
 ははあ、今し生命判断を頼んで来た痴態の限りの二人の者、刃《やいば》で死ねずに、水で死ぬ気になったのか、愚かなる命の二人よ、とお銀様は、写し絵にうつるような湖面の一巻の終りを飽くまで見据えて、眉一つ動かそうともしません。
 そのうちに、二人のもがき合った湖面の水が逆まいて、怖ろしく浪立ったのは束《つか》の間《ま》、やがて漫々とまたもとの静かさに返ると、急に闇が迫って――おりからゴーンと三井寺の鐘、あつらえたように、お銀様の夢のうちの耳にまで響き渡りました。

         十五

 だが、夢はそこで破れたのではありません。夢の中なる夢路かなという、人生そのもののうつしのような暗示が、お銀様の枕の上で続いているのです。
 動揺した湖面が平らかになって、三井寺の鐘がゴーンと鳴り響いたことに於て一幕の終りとなったかと言うに、さにあらず、静まり返った湖面の風景は暗転にもならず、引返しにもならないで、そっくりいっぱいの大道具のままに運転をしておりましたのですが、腥《なまぐさ》い風がドコからともなく吹き渡って来て、お銀様の身辺にせまると同時に、湖面湖上いっぱいに黒雲が立ち塞《ふさ》がったものですから、こんなところに長居は無用と、お銀様はそぞろ湖岸を立ち去ろうとすると、突然、湖面の一端が破れて、その穴から、河童《かっぱ》でもあるような、勢いとしては脱兎の如く、浮び出たが早いかかけめぐって、早くもお銀様の行手に立ち塞がったものがあります。
「誰だえ」
「今の、あのわたしでございます」
「おや、お前は、さきほど身の上判断を頼みに来た真三郎さんとやらではないか、お連れのお豊さんはどうしました」
「そのことでございます、あれほどしっかり結びついたものが、とうとう離れてしまいました」
「これはこれは」
「お豊が離れて生きて返ったのか、わたしよりも一層深い底に沈んでしまったのか、それがわかりませぬ」
「やれやれ」
「お豊の行方をつきとめていただきとうございます、そう致しませんと、わたしは死んでも死にきれませぬ」
「それは、わたしの知ったことじゃありません」
 この時、お銀様が厳然として言いました。
「そうおっしゃられると、とりつく島はござりませぬ」
「それも、わたしの知ったことではない、お前さんたちは、あれほど固く結びついていながら、いまさら片方《かたかた》の行方を人に問うなどとは、あんまり虫がよすぎる」
「でも、湖の深い底へ二人が沈んで行きますると、お豊が離れたのです、離れたがったのは本人の意志ではなく、誰か上の方で、あの女の後ろ髪をしきりに引くものがあるので、それでお豊がわたしから離れてしまいました」
「誰が、心中者の後ろ髪なんぞ引くもんですか」
「誰彼と申しましょう、あなた様のほかにはその人がございません」
「何を言います、ではお前さんは、お豊さんとやらの後ろ髪を引いて、この世に引戻したのは、わたしの仕業だとおっしゃるのですか」
「あなたでなくして、ほかに誰がおりましょう」
「ようござんす、では、わたしがそのお節介役《せっかいやく》を引受けたとしましょう、お前さんだけを死なして、あの女子《おなご》を引戻したのがわたしだとしたら、お前さんはどうします」
「恨みます、七生までも」
「恨んで、どうなさいます」
「あなたの身の上にとりついて、一生のうちに必ず、あなたを亡ぼしてお目にかけます」
「おやおや、たいへんな執念ですね、一生のうちに、わたしを亡ぼすとおっしゃるが、一生の後に亡びない生命がどこにありますか」
「いいえ、亡ぼすにもただは亡ぼしませぬ、こうだと思い知らせて上げるだけの亡ぼし方で、亡ぼします」
「なお大変なことになりましたねえ、長い目で見ておりましょう」
「見ておいでなさい、そうら、竜神の森が焼けました、あそこに斬られているのは、ありゃ誰だと思召《おぼしめ》しますか」
「そんなことを、わたしが知るものですか」
「金蔵なんです、金蔵の奴、わたしの恨みで死にました」
「ははあ、では、少し見当違いになりましたね、最初のもくろみでは、わたしの身の上にとりついてやるとおっしゃったようですが、いつのまにか金蔵さんとやらの方へ振替わりましたね、お門違いじゃないかね」
「違いはありません。それから、もっと恨みなのは机竜之助という奴なんです、あれがお豊を自由にしてしまいました、お聞きの通りお豊は、わたしのために死ぬんじゃない、わたしを殺して死ぬんだと、あの時にうわごとのようなことを言いましたが、今ぞ思い当るところがお有りでございましょう、真三郎のために死んでくれたというのは嘘でした、あの人は竜之助の奴のために自由にされたのです、あの男のために死にました、あの男のために死んでやりました、恨みです」
「その机竜之助とやらいう男ならば、かまわないから、うんと取りついておやりなさい」
 お銀様から冷然として言い放されると、水死人は躍起となって、
「それを言われると、わたしの五体が裂けます、お豊もお豊です、わたしを水の底へ追い込んで置いて、自分は立戻って好きな男と勝手な真似《まね》をした女――ですから、あれの末期《まつご》をごらんなさい、鳥は古巣へ帰れども、往きて帰らぬ死出の旅――おっつけ、わたしのあとを追って地獄へ来るあの女の面《かお》が見てやりたい。いいえ、こちらへ来たら、また私は可愛がってやります。お豊、おいで、わたしはお前を憎めない」
「おやおや、たいそう
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