めを葺《ふ》きしが、一日に五度まで取って菖蒲打《しょうぶう》ちをした。利平おやじがあんまりだと言って、親父に言いつけたが、親父が言うには、子供は元気でなければ医者にかかる、病人になるわ、幾度も葺き直し、菖蒲をたくさん買入れよと言った故、利平も菖蒲がなくて困ったと、おれが十六七歳のとき話した。
このおやじも久しくつとめて兄の代には信濃の国までも供して行きおったが、兄貴が使った侍はみんな中間《ちゅうげん》より取立て、信州五年詰の後、江戸にて残らず御家人《ごけにん》の株を買ってやられたが、利平は隠居して株の金を貰って、身よりのところへかかりて、金を残らずそやつに取られてしまった。兄貴の家へ来たが、朋輩《ほうばい》が邪魔にしてかわいそうだから、おれが世話をして坊主にし、干ヶ寺に立たしてやったが、まもなくまた来たから、谷中の感応寺の堂番に入れて置いたが、ほどなく死におったよ、おれが三十ばかりの時だ。
おれ七つの時、今の家(勝)へ養子に来たが、その時、十七歳と言って、芥子坊主《けしぼうず》の前髪を落して、養子の方で、小普請支配|石川右近将監《いしかわうこんしょうげん》と、組頭の小屋大七郎に、初めて判元《はんもと》の時に会ったが、その時は小吉といったが、頭《かしら》が『歳は幾つ、名は何という』と聞きおった故、名は小吉、年は当年十七歳と言ったら、石川が大きな口をあいて、『十七には老《ふ》けた』とて笑いおった。その時は青木甚兵衛という大御番、養父の兄きが取持ちをしたよ。
おれが名は亀松という、養子に行って小吉となった。それから養家には祖母がひとり、孫娘がひとり、両親は死んだあとで、残らず深川へ引取り、祖父が世話をしたが、おれはなんにも知らずに遊んでばかりいた。
この年に、凧にて、前町と大喧嘩をして、先は二三十人ばかり、おれは一人で叩き合い、打ち合いせしが、ついにかなわず、干魚場《ほしかば》の石の上に追い上げられて、長竿でしたたか叩かれて散らし髪になったが、泣きながら脇差を抜いて切り散らし、所詮《しょせん》かなわなく思ったから、腹を切らんと思い、肌をぬいで石の上に坐ったら、その脇にいた白子屋という米屋が、留めて家へ送ってくれた。それよりして近所の子供が、みんなおれが手下になったよ、おれが七ツの時だ。
深川の屋敷も、度々《たびたび》の津浪《つなみ》ゆえ、本所へ屋敷替えを親父がして、普請の出来るまで、駿河台の太田姫稲荷の向う、若林の屋敷を当分借りていたが、その屋敷は広くって、庭も大そうにて、隣に五六百坪の原があったが、化物屋敷とみんなが話した。おれが八ツばかりの時に、親父がうちじゅうのものを呼んで、その原に人の形をこしらえて、百ものがたりをしろと言った故、夜みんなが、その隣の屋敷へ一人ずつ行った、あの化け物の形の袖へ名を書いた札を結えつけて来るのだが、みんなが怖《こわ》がった。オカしかった。いちばんしまいにおれが行く番であったが、四文銭を磨いて人の形の顔へ貼りつけるのだが、それがおれが番に当って、夜の九ツ半ぐらいだと思ったが、その晩は真暗で困ったがとうとう目を附けて来たよ、みんなに賞《ほ》められた。
おれが養家(勝家)の母どのは、若い時から意地が悪くて、両親もいじめられて、それ故に若死をしおったが、おれを毎日毎日いじめおったが、おれもいまいましいから、出放題に悪態をついたが、その時、親父が聞きつけて憤《おこ》って、年も行かぬに母親に向って、おのれのような過言を言う奴はない、始終が見届けられないとて、脇差を抜いておれに打ちつけたが、清《きよ》という妻はあやまってくれたっけ。
翌年、ようよう本所の普請が出来て、引越したが、おれがいるところは表の方だが、はじめて母どのといっしょになった、そうすると毎日やかましいことばかり言いおったから、おれも困ったよ、ふだんの食物も、おれにはまずいものばかり食わして、憎い婆あだと思っていた。おれは毎日毎日、外へばかり出て、遊んで喧嘩ばかりしていたが、ある時、亀沢町の犬が、おれの飼って置いた犬と食い合って、大喧嘩になった。その時は、おれが方は隣の安西養次という十四ばかりのが頭《かしら》で、近所の黒部金太郎、同兼吉、篠木大次郎、青木七五三之助と、高浜彦三郎に、おれが弟の鉄朔というのと八人にて、おれの門の前で、町の野郎たちと叩き合いをした。亀沢町は緑町の子供を頼んで、四五十人ばかりだが、竹槍を持って来た、こちらは六尺棒、木刀、しないにてまくり合いしが、とうとう町の奴等を追い返した。二度目には向うには大人が交って、またまた叩き合いしが、おれが方が負けて――八人ながら隣の滝川の門の内へはいり、息をついたが、町方では勝ちに乗って、門を丸太にて叩きおる故、またまた八人が一生懸命になって、今度はなまくら脇差を抜いて、門をあけて残らずきり立てしが、その勢いに怖れて、大勢が逃げおった。こちらは勝ちに乗ってきり立てしも、おれが弟は七ツばかりだが強かった、一番に追いかけたが、前町の仕立屋の餓鬼に弁治というやつが引返して来て、弟の手を竹槍にて突きおった、その時、おれが駈けつけて、弁治の眉間《みけん》を切ったが、弁治めが尻餅をつき、溝《どぶ》の中へ落ちおった故、つづけ打ちに面《つら》を切ってやった。前町より子供の親父らが出て来るやら大騒ぎ、それから八人がかちどきを揚げて引返し、滝川のうちへはいりたがいによろこんだ。その騒ぎを親父が長屋の窓より見ていて、おこって、おれは三十日ばかり目通り止められ押込めに逢った、弟は蔵の中へ五六日おしこめられた」
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神尾主膳は読んで行くうちに、自分の幼年時を、鏡で見せつけられるようなところがないではない。おれは、これらの子供らより驕《おご》った家庭に育ったが、やっぱり気分に於ては、これに譲らないようだ。よし、それではひとつ、おれもこの伝によって、幼年時代のいたずら物語を書いてみてやろう、という気分にまでなりましたが、読みかけたこの書物を、さし置く気にもなれません。全く面白い読物だと心を引かれたのでしょう。
五十五
神尾主膳は、なお同じ書物を読み進んで行くと、今までは夢酔老の幼年時代、これからが修業時代の思い出になる。
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「九ツの時、養家の親類に鈴木清兵衛という御細工所頭《おさいくどころがしら》を勤める仁《じん》、柔術の先生にて、一橋殿、田安殿はじめ、諾大名大勢弟子を持っている先生が、横網町というところにいる故、弟子になりに行くべしと親父が言う故、行ったが、二五八十の稽古日にて、はじめて稽古場へ出てみた。はじめは遠慮をしたが、だんだんいたずらを仕出し、内弟子に憎まれ、不断えらき目に逢った。ある日稽古場に行くと、はんの木馬場というところにて、前町の子供らの親共が大勢集まって、おれが通るを待っている、一向に知らずして、その前を通りしが、それ男谷のいたずら子が来た、ぶち殺せと罵《ののし》りおって、竹槍棒ちぎりにて取巻きしが、直ちに刀を抜き、振払い振払い馬場の土手へ駈け上り、御竹蔵《おたけぐら》の二間ばかりの沼堀へはいり、ようやく逃げ込みしが、その時羽織袴が泥だらけになりおった。それから御竹蔵番の門番はふだん遊びに行く故に、いちいち世話をしてくれたが、うちへ帰るきがいがある故、頼んで送ってもらった。大きな目に逢った。その後は二月ばかり亀沢町は通らなんだが、同町の縫箔屋《ぬいはくや》の長というやつが、門の前を通りおったから、なまくら脇差にて叩きちらしてやったが、うちの中間《ちゅうげん》がようようとめて、長のうちへ連れて行って、はんの木馬場の仕返しの由をその野郎の親によく言ったとさ。それよりは亀沢町にて、おれに無礼をする者はなくなったよ。
柔術の稽古場で、みんながおれを憎がって、寒稽古の夜つぶしということをする日、師匠から許しが出て、出席の者が食い物をてんでんに持寄って食うが、おれも重箱へ饅頭《まんじゅう》を入れて行ったが、夜の九ツ時分になると、稽古を休み、皆々、持参のものを出して食うが、おれも旨《うま》いものを食ってやろうと思っていると、みんなが寄って、おれを帯にて縛って、天井へくくし上げおった、その下で残らず寄りおって、おれが饅頭まで食いおる故、上よりしたたかおれが小便をしてやったが、取りちらした食いものへ小便がはねおった故、残らず捨ててしまいおったが、その時はいいきびだと思ったよ。
十の年の夏、馬の稽古をはじめたが、先生は深川菊川町両番を勤める一色幾次郎という師匠だが、馬場は伊予殿橋の、六千石取る神保磯三郎という人の屋敷で稽古をするのだ。おれは馬が好きだから、毎日毎日門前乗りをしたが、二月目に遠乗りに行ったら、道で先生に逢って困ったゆえ横町へ逃げ込んだ、そうすると先生が、次の稽古に行ったら叱言《こごと》を言いおった、まだ鞍《くら》も据《すわ》らぬくせに、以来は固く遠乗りはよせと言いおった故、大久保勤次郎という先生へ行って、責め馬の弟子入りしたが、この師匠はいい先生で、毎日木馬に乗れとて、よくいろいろ教えてくれたよ。毎日五十鞍乗りをすべしとて、借馬引にそう言って、藤助、伝蔵、市五郎という奴の馬を借り、毎日毎日、馬にばかりかかっていたが、しまいには馬を買って藤助に預けて置いたが、火事には不断出た。一度、馬喰町の火事の時、馬にて火事場へ乗込みしが、今井帯刀という御使番にとがめられて一散に逃げたが、本所の津軽の前まで追いかけおった、馬が足が達者ゆえ、とうとう逃げ了《おお》せた。あとで聞けば、火事場は三町手前よりは火元へ行くものではないということだよ。
一度、隅田川へ乗り行きしが、その時は伝蔵という借馬引の馬を借り乗ったが、土手にて一散に追い散らしたが、どこのハズミか力皮が切れて、鐙《あぶみ》を片っぽ、川へ落した、そのまま片鐙で帰ったことがある。
十一の年、駿河台に鵜殿甚左衛門《うどのじんざえもん》という剣術の先生がある、御簾中様《ごれんじゅうさま》の御用人を勤め、忠也派一刀流にて銘人とて、友達がはなしおった故、門弟になったが、木刀の型ばかりを教えおる故、いいことに思ってせいを出しいたが、左右とかいう伝受をくれたよ。その稽古場へ、おれが頭《かしら》の石川右近将監の息子が通いしが、おれの高やなにかをよく知っている故、大勢の中で、おれが高はいくらだ、四十俵では小給者だと言って笑いおるが不断の事ゆえ、おれも頭の息子ゆえ内輪にして置いたが、いろいろ馬鹿にしおる故、ある時木刀にて思うさま叩き散らし悪態をついて泣かしてやった。師匠にヒドク叱られた。今は石川太郎右衛門とて御徒頭《おかちがしら》をつとめているが、古狸にて今に何にもならぬ、女をみたような馬鹿野郎だ。
十二の年、兄貴が世話をして学問をはじめたが、林大学頭《はやしだいがくのかみ》のところへ連れて行きおったが、それより聖堂の寄宿部や、保木巳之吉と佐野郡衛門という肝煎《きもいり》のところへ行って、大学を教えてもらったが、学問は嫌い故、毎日毎日、桜の馬場へ垣根をくぐりて行って、馬ばかり乗っていた。大学五六枚も覚えしや、両人より断わりしゆえ嬉しかった」
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先生から見放されて、嬉しかったという奴もなかろう。こういう出来の悪い奴の子に、麟太郎のような学問好きが出来たのも不思議と、神尾が思って読みました。
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「馬にばかり乗りし故、しまいには銭がなくって困ったから、おふくろの小遣《こづかい》またはたくわえの金を盗んで使った。(そろそろ盗みがはじまったよと神尾がザマを見ろという面《かお》をする。)
兄貴がお代官を勤めたが、信州へ五カ年詰めきりをしたが、三カ年目に御機嫌伺いに江戸へ出たが、その時おれが馬にばかりかかっていて、銭金を使う故、馬の稽古をやめろとて、先生へ断わりの手紙をやった、その上にておれをヒドク叱って、禁足をしろと言いおった、それから当分うちにいたが困ったよ。
十三の年の秋、兄が信州へ行ったからまたまた諸方へ出あるき、おれのばばあ
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