太夫の心を常ならず不安にしました。
持てる人としての伊太夫は、他の何事にも驚かぬことの代りに、持たぬ者共の動静に神経が過敏となる。伊太夫はしかるべき家に生れてしかるべきように今日まで来ているから、あえて力を以て、暴圧と搾取とを、持たぬ者共に加えた覚えはないのだから、モッブの恨みを買うべき事情は少しも備えていないとは言いながら、持たぬ者共が動揺をはじめた時は、その波動が、いつどこにいようとも、誰人にも増して身にこたえるのは、持てる人の身にならなければわからない。
湖岸暴動の風聞を聞くにつけて、伊太夫はいやな気になって、それで急に、船よそおいをさせて、竹生島詣でを口実の水上避難という次第でありました。
二
「おやおや、何か変なものが流れて来ますねえ」
ややあって、お角さんが湖上をながめてこう言いました。
「あれごらんなさい、あれはまだ新しい盃とはんだい――まあ、こちらの方から、女の帯が流れて来ますよう」
盃とはんだいと言っていた間はまだいいが、女の帯と言われて、一座がゾッとしました。
杯盤の流れたということは、いささか風流の響きもあるが、女の帯が流れたということに、何か一座の身の毛をよだてるような暗示があったらしい。そうして湖面を見て、その言う通りの酒器が浮び来《きた》ることは誰もそれを見たが、女の帯が流れているということを、舟の上の誰もがまだ気がつかない。酒器は水に浮ぶものだが、女の帯は必ずしも水に浮いて流れるとは限らない。帯によっては水に沈み勝ちでなければならないのをめざとくその一端を見つけて、帯、しかも女の帯と認定してしまったそれは、お角さんの勘と言わなければならない。
そこで、一座は、お角さんの勘を基調として一同に身の毛をよだてたのですが、帯を帯として認め得た者は、お角さんのほかには一人もありませんでした。
だが、そう言われて見ると、一筋の女の帯が暢揚《ちょうよう》として丈《たけ》を延ばして、眼前に腹ばって、のして行く。さきに流れた、誰にも認められるべきところの酒器台盤がそれに先行して行く。見ようによると、一匹の大蛇が、その酒器台盤を追うて、これを呑まんとして呑み得ざるままに、追走してのして行く形に見えて、いっそう物すごくなったのです。
一座は無言で、ゾッとしたままで、その酒器を追う平面毒竜の形を見入ったまま、水を打ったように静寂に返りました。
そうすると、暫くあって、その毒竜の尾について、間隔は二三間を隔てて濫觴《らんしょう》のような形のものが二つ、あとになり、先になり、前なるは振向いて後ろなるを誘うが如く、後ろなるが先んじて前なるものに戯るるが如く、流れ流れて行くものを認めないわけにはゆきません。
「あれはポックリです――女物の、二十歳《はたち》前の女の子でなければ穿《は》きません」
噛《か》んで吐き出すようにお角さんが言う。それが一層のまた凄味を物言わぬ一座の上に漂わせたと見えて、ちょっと目をそらす者さえあったが、憑《つ》かれたように、その行手を見据えているものも多かったのです。
湖上はと見れば、その時、立てこめた一面の霧です。
行手も霧、返るさも霧、ただその霧が明るいことだけは、霧の上に月がある余徳なのであって、この霧の中を迷わずに進み得るのは、船頭そのものの手練である。ところが、その多年の船頭そのものの手腕が怪しくなったと見えて、
「な、な、なんてだらしのねえ船扱いだ、おいおい、何とかしなければ正面衝突だよ、舟と舟とが、まともにぶっつかるよ、おい、その舟にゃ舟夫《せんどう》がいねえのか」
こちらの船頭が舟の舳先《へさき》で、あわただしくこう叫んだのが、また一座の沈黙の空気を脅《おびやか》しました。
今までは静かに漂うものの無気味さに打たれていたのですが、今度は、さし当りこちらにのしかかって来るものがあるらしい。その警戒のためにとて、こちらの船の舟夫が、あわただしいこの警告です。見ればなるほど、一隻の舟がこちらに向って、正面衝突の形で、前面より突き進んで来つつある。こちらの船頭が叫ぶのも無理はない、あのままで来ればまさしく正面衝突です。しかし、正面衝突とすれば、その危険性は我になくして寧《むし》ろ彼にあるのです。何となれば、かの舟はこの船に比べてはるかに小さいから、正面衝突の場合の損傷を論ずるという日になると、まるで比較にならない。そこで、こちらの船頭の警告というものは、むしろ我の危険のためにあらずして、彼の危険のための忠告の好意ある叫喚に過ぎないのだが、その好意を好意と受取らないのが、先方の舟の行き方であって、そういう危険状態が目睫《もくしょう》に迫っているにかかわらず、あえて警告に応じて、舟の針路を転向しようとも、変換させようとも試みないで、霧の中を出て、霧の中
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