さしいおやじで、時に菓子など持って来てくれた。十四五日ばかりいると子のようにしおった。おれに江戸のことを聞いて、おらがところの子になれと言いおる故、そこで考えてみたが、なんしろおれも武士だが、うちを出て四カ月になる、こんなことをして一生いてもつまらねえから、江戸へ帰って、祖父の了簡次第《りょうけんしだい》になるがよかろうと思い、娘へ機嫌をとり、もも引と、きもののつぎだらけなのを一つ貰って、閏《うるう》八月の二日、銭三百文、戸棚にあるを盗んで、飯をたくさん弁当へつめて、浜へ行くと言って夜八ツ時分起きて、喜平がうちを逃げ出して、江戸へその日の晩の八ツ頃に来たが、あいにく空は暗し、鈴ヶ森にて、犬が出て取巻いて、一生懸命大声を揚げてわめくと、番人乞食が犬を追い散らしてくれた故、高輪《たかなわ》の漁師町のうらにはいりて、海苔取船《のりとりぶね》があったから、それをひっくり返して、その下に寝たが、あんまり草臥《くたび》れたせいか、翌日は、日が上っても寝ていたから、所の者が三四人出て見つけて叱りおった。わび言をしてそこを出て飯を食いなどして、愛宕山《あたごやま》でまた一日寝ていて、その晩は坂を下るふりをして、山の木の茂みへ寝た。三日ばかり人目を忍んで、五日目には夜両国橋へ来て、翌日|回向院《えこういん》の墓場へ隠れていて、少しずつ食物買って食っていたが、しまいには銭がなくなったから、毎晩|度々《たびたび》、垣根をむぐり出て、貰っていたが、夜はくれ手が少ないから、ひもじい思いをした。回向院奥の墓所に乞食の頭《かしら》があるが、おれに仲間に入れとぬかしおったから、そやつのところへ行って、したたか飯を食った」
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 野郎、土性骨まで乞食になりおったな、しかしまあ、ここまで乞食になりきれりゃあ、人間もねうちものだと、神尾が感心しながら、野郎どんな面《かお》をして養家の閾《しきい》をまたぐのかと、調べてみました――
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「そして、裏から亀沢町へ来て見たが、なんだか閾が高いようだから(でも閾の高低がわかるだけの感は残っていたのが不思議)引返して二ツ目の向うの材木問屋の蔭へ行って寝た。三日目に朝早く起きてうちへ帰ったが、うちじゅう、小吉が帰ったとて大騒ぎをし、おれが部屋へ入って寝たが、十日ばかりは寝通しをした。おれがいないうちは加持祈祷いろいろとして、いとこの恵山というびくは、上方まで尋ねて上ったとて話した。それから医者が来て、腰下に何か仔細があろうとていろいろ言ったが、その時はまだ、きんたまが崩れていたが、強情にないと言って帰してしまった。三月ばかりたつと、しつ[#「しつ」に傍点]が出来てだんだん大相《たいそう》になった、起居《たちい》もできぬようになって、二年ばかりは外へも行かずうちずまいをしたよ。それから親父が、おれの頭《かしら》、石川右近将監に、帰りし由を言って、いかにも恐れ入ること故、小吉は隠居させ、ほかに養子いたすべきと言ったら、石川殿が、今日帰らぬと月切れゆえ家は断絶するが、まずまず帰って目出たい、それには及ばぬ、年とって改心すればお役にも立つべし、よくよく手当して遣《つか》わすべしと言われた、それから一同安心したと皆が咄《はな》した」
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         五十八

 神尾主膳は、読み去り読み来《きた》る間にも、さげすんでみたり、存外やると思ってみたり、ばかばかしいと思ってみたり、おれは何が何でもここまでは落ちられないと歎息してみたりする、その間にも、四十俵高の小身者《しょうしんもの》と、自分の生れと比較して、優越感にひたらざるを得ないのも、この人の性根であります。
「根が小身者だからな」
とさげすみながらも、甚《はなは》だ共鳴させられる節が多くて、これはおれを書いているのではないか、自分の姿を鏡で見せられてでもいるような心持に、うっかりと捉われてしまうのは、つまり、高に大小こそあれ、やっぱり生え抜きの江戸人である。勝の家も小身ながら開府以来の江戸人である、男谷《おたに》の方は越後から来た検校出《けんぎょうで》ということだが、それも何代か江戸に居ついて、江戸人になりきっている。江戸人に共通したところのものが、この一巻のうちに流れている。しかるが故に、神尾主膳が、このまずい文章と、格法を無視した記録に、足許をさらわれそうにしている。読み出した以上は読み了《おわ》らなければならない。東海道をうろついて、乞食をして歩いただけで納まったのでは、勝の父らしくない。この性根が一生涯附いて廻らなければ本物とは言えないと、神尾は変なところへ同情を置いて、次へと読み進みました。
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「十六の年には、ようやくしつ[#「しつ」に傍点]もよくなったから出勤するがいいと言うから、
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