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「おれほどの馬鹿な者は、世の中にもあんまり有るまいと思う故《ゆえ》に、孫やひこのために話して聞かせるが、よく不法者、馬鹿者のいましめにするがいいぜ。
おれは妾《めかけ》の子で、それを本当のおふくろが引取って育ててくれたが、餓鬼の時分よりわるさばかりして、おふくろも困ったということだ。
それと親父が日勤のつとめ故に、うちにはいないから、毎日毎日わがままばかり言うて強情ゆえ、みんながもてあつか[#「もてあつか」に傍点]ったと、用人の利平治という爺《じい》が話した」
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 神尾は自分の事を書かれたように共鳴する点もある。

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「その時は深川の油堀というところにいたが、庭に汐入《しおい》りの池があって、夏は毎日毎日池にばかり入っていた。八ツに、おやじがお役所より帰るから、その前に池より上り、知らぬ顔で遊んでいたが、いつもおやじが池の濁りているを、利平爺に聞かれると、爺があいさつに困ったそうだ。おふくろは中風《ちゅうぶ》という病で、立居が自由にならぬ、あとはみんな女ばかりだから、バカにしていたずらのしたいだけをして、日を送った。兄貴は別宅していたから何も知らなんだ。

おれが五つの年、前町の仕事師の子の長吉という奴と凧喧嘩《たこげんか》をしたが、向うは年もおれより三つばかり大きい故、おれが凧を取って破り、糸も取りおった故、胸ぐらを取って切石で長吉の面《かお》をぶった故、唇をブチこわして血がたいそう流れ泣きおった。その時、おれが親父が庭の垣根から見ておって、侍を使によこしたから、うちへ帰ったら、親父がおこって、人の子に傷をつけて済むか済まぬか、おのれのような奴は捨て置かれずとて、縁の柱におれを括《くく》らして、庭下駄で頭をぶち破《わ》られた。今に、その傷が禿《は》げて凹《くぼ》んでいるが、月代《さかやき》を剃《そ》る時は、いつにても剃刀がひっかかって血が出る、そのたび、長吉のことを思い出す。
おふくろが、方々より来た菓子をしまって置くと、盗み出して食ってしまう故、方々へ隠して置くを、いつも盗む故、親父には言われず困った。いったいは、おふくろがおれを連れて来た故、親父にはみんな、おれが悪いいたずらは隠してくれた。あとの家来はおふくろを怖れて、おやじに、おれがことは少しも言うことはならぬ故、あばれ放題に育った。五月あやめを葺《ふ》きしが、一日に五度まで取って菖蒲打《しょうぶう》ちをした。利平おやじがあんまりだと言って、親父に言いつけたが、親父が言うには、子供は元気でなければ医者にかかる、病人になるわ、幾度も葺き直し、菖蒲をたくさん買入れよと言った故、利平も菖蒲がなくて困ったと、おれが十六七歳のとき話した。

このおやじも久しくつとめて兄の代には信濃の国までも供して行きおったが、兄貴が使った侍はみんな中間《ちゅうげん》より取立て、信州五年詰の後、江戸にて残らず御家人《ごけにん》の株を買ってやられたが、利平は隠居して株の金を貰って、身よりのところへかかりて、金を残らずそやつに取られてしまった。兄貴の家へ来たが、朋輩《ほうばい》が邪魔にしてかわいそうだから、おれが世話をして坊主にし、干ヶ寺に立たしてやったが、まもなくまた来たから、谷中の感応寺の堂番に入れて置いたが、ほどなく死におったよ、おれが三十ばかりの時だ。

おれ七つの時、今の家(勝)へ養子に来たが、その時、十七歳と言って、芥子坊主《けしぼうず》の前髪を落して、養子の方で、小普請支配|石川右近将監《いしかわうこんしょうげん》と、組頭の小屋大七郎に、初めて判元《はんもと》の時に会ったが、その時は小吉といったが、頭《かしら》が『歳は幾つ、名は何という』と聞きおった故、名は小吉、年は当年十七歳と言ったら、石川が大きな口をあいて、『十七には老《ふ》けた』とて笑いおった。その時は青木甚兵衛という大御番、養父の兄きが取持ちをしたよ。

おれが名は亀松という、養子に行って小吉となった。それから養家には祖母がひとり、孫娘がひとり、両親は死んだあとで、残らず深川へ引取り、祖父が世話をしたが、おれはなんにも知らずに遊んでばかりいた。

この年に、凧にて、前町と大喧嘩をして、先は二三十人ばかり、おれは一人で叩き合い、打ち合いせしが、ついにかなわず、干魚場《ほしかば》の石の上に追い上げられて、長竿でしたたか叩かれて散らし髪になったが、泣きながら脇差を抜いて切り散らし、所詮《しょせん》かなわなく思ったから、腹を切らんと思い、肌をぬいで石の上に坐ったら、その脇にいた白子屋という米屋が、留めて家へ送ってくれた。それよりして近所の子供が、みんなおれが手下になったよ、おれが七ツの時だ。

深川の屋敷も、度々《たびたび》の津浪《つなみ》ゆえ、本所へ屋敷替えを親父がし
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