文章でありました。
 易者としてのお銀様は、算木筮竹をもって吉凶と未来とを占《うらな》っているのではないのです。
 この難解の文字を打砕かんとして苦闘をつづけているのですが、こればっかりは現実で歯が立たなかったように、夢になっても歯が立ちません。
 そうして、現実の時に反抗したと同様の弾力を以て、夢で易経と取組んで、これに悩まされている自分を如何ともすることができません。
 その時、庵外の夜に人のおとなうものがあって、ホトホトと柴折戸《しおりど》を打叩いている。
 はて、深夜にここまで自分を訪ねて来る人はないはずだ、あるにしても、昨晩からここに宿を求め得たということは、自分も予期してはいなかったし、ここへ着いてはじめて不破の関守氏の肝煎《きもい》りの結果なのだから、いずれのところからも、深夜に使者の立つ心当りはないのです。取合わないがよろしいと、お銀様も思案をきめまして、そのまま、また卦面《けめん》に眼を落していると、
「もしもし、女易者様のお住居《すまい》は、こちら様でございましたか、夜分、まことに恐れ入りますが、思案に余りましたことがございまして、お伺い致しました」
 外でするのは、まだ若々しい男の声に相違ないが、その声音《こわね》によって見ると、いかにもしおらしい、死出の旅からでもさまよい出して来たもののような、すさまじさが籠《こも》るので、お銀様の心も妙にめいりました。だが、滅多に返事を与うべきものではない。そこで、返事がないことを、外ではもどかしがっていると見えて、
「もし、後生一生のお頼みでございます、人の魂二つが、生きようか、死のうか、迷い抜いての上のお訪ねでございます、御庵主様にお願いがあって打ちつれて参りました」
 そう言うのは、こんどは、うら若い女の声でしたから、お銀様の胸が安くありません。
 前の声は、まだ若い男の声で、こんどのは同じほどの女の声。その世にも哀れに打叩く声音というものは、全く血を吐くような切羽《せっぱ》のうめきがあることを、聞きのがすわけにはゆきません。
 それでもお銀様は、なおなんらの応対の返事を与えないでおりましたが、お銀様自身よりも、たまり兼ねたものは別室の婆やでありまして、
「どなた様ですか――何の御用でござりましたか知ら」
と言って、起き上った様子です。
 婆やが立ってくれれば、何とか取仕切って帰してしまうだろう。こう
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