えんがために、調度を急いだというわけではなく、前住者がついこの間まで居抜いたものを、そっくり置き据《す》えただけのものであります。
床の間の掛軸の、懐紙風《かいしふう》に認《したた》められた和歌の一首――
[#ここから2字下げ]
花のいろは
うつりにけりな
いたつらに
わか身世にふる
なかめせしまに
[#ここで字下げ終わり]
ここにあるべくしてある文字で、かえって当然過ぎる嫌いはあるが、さりとて、侮るべき筆蹟ではない。筆札《ひっさつ》に志あるお銀様が見ても、心憎いほどの筆づかいであったのは、それは名家の筆蹟を憎むのではない、どうやらこの文字の主《ぬし》が、やっぱり女であると思われることから、お銀様の心を幾分いらだたしめました。
「わたしにも、このくらいに書けるか知ら」
書いた主は何人《なんぴと》だかわからないが、女の筆のあとと見込んだばっかりに、お銀様が嫉妬心を起したのも、この人としては珍しくありません。ことに行成《こうぜい》を品隲《ひんしつ》し、世尊寺をあげつらうほどの娘ですから、女にしてこれだけの文字が書けるということ、そのことにある嫉《ねた》みを感じ、同時に自分もこのくらいに書けるか知らと僻《ひが》んでみたまでなのです。床の間の傍らに、仏壇とも袋戸棚ともつかない一間があって、そこに一体の古びきった彫刻が控えているということは、この室へ入った最初の印象で受取りきっていましたから、今更どうのというわけではありませんが、あれが小町の本当の姿か知らんとお銀様は、その瞬間に感じていたのです。
その彫刻は二尺ばかりの木彫の坐像で、一見しょうづかの婆《ばば》とも見える姿をした女性が立膝を構えている。おどろにかぶった白髪と、人を呑みそうな険悪な人相と、露《あら》わにした胸に並んで見える肋骨の併列と、布子《ぬのこ》ともかたびら[#「かたびら」に傍点]ともつかない広袖の一枚を打ちかけた姿と言い、誰が見ても三途《さんず》の川に頑張って、亡者の着物を剥《は》ぐお婆さんとしか見えないのでありますが、辛うじてそれがしょうづかの婆さんでないことから救われているのは、片手には筆を持って、垂直に穂先を下に向けた一方の手は薄い板っぺらのような物を持添えて立膝の上に置いてある。その薄っぺらな板のようなものが短冊《たんざく》というものであることを認めることによって、このお
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