面見知《かおみし》りであるらしい相手で、すっかり納まり込んだ関守氏は、玄関に腰うちかけていい気持で草鞋《わらじ》の紐《ひも》を解く。
 それにしても、今日は関守氏、ことのほか艶福の日と見えて、走井の水をたずねた時は花売りの乙女――寒雪画伯の別荘で名所を見せてくれたのが極めて尋常ながら、これも年に於ては不足のない妙齢の処女、こんどこのところへ来て見ると、現われたお宮さんがすごいような丸髷の大年増ときている。しかも、それも双方相当の前知ということであってみると、穏かでない。だがしかしここに現われたお宮さんは、富山家《とみやまけ》の令夫人としては少々凄味が勝ち過ぎているし、ここを訪うて来た関守氏は、貫一君としては少し白髪が有り過ぎる。まずまあ、これも安心して置いてよろしい。

         十一

 長安寺の小町塚の庵《いおり》に残されたお銀様は、決して、しかく緩慢にして悠長なものではありません。お銀様は憤《いきどお》っている、いかにして何物を憤っているかということは、前巻の終りに次のように記されてあったはずです。

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「胆吹の御殿ではお銀様が憤っている。
 お銀様は絶えず憤っている人である。その人が、憤りの上にまた一つの憤りを加えた。
 何を憤っている。
 お雪ちゃんという子が、恩を忘れて裏切りの冒涜《ぼうとく》の行動をしている、それを憤っているのか。そうではない。
 竜之助という男が、無制限の放縦と、貪婪《どんらん》と、虚無に盲進する、それを憤っているのか。そうでもない。そんなことはこの暴女王にとっては、憤慨ではなくて、むしろ興味である。
 そもそも、この暴女王が今日に及んで、かくも深く憤りを発しているという所以《ゆえん》のものは、己《おの》れの夢想する王国が、土台からグラつき出したから、それを見せつけられるがために憤っているのに相違ない。
 人間というやつは度し難いものだ、人間というやつは救うよりは殺した方が慈悲だ、とさえ、ややもすれば観念せしめられることの由を如何《いかん》ともし難い。
 ナゼならば、彼女は己れの強力を傾注して、有象無象をよく生かしてやらんがために事を企てているが、ここに来る奴、集まる奴にロクな奴はない! いや、ここに来る奴、集まる奴にロクな奴がないのではない、およそ生きんことを欲する人間にロクな奴がない! という断案を得
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