ができぬから口惜《くや》しかった。それから忠次郎に聞いて、団野へ弟子入りに行った。先の師匠からやかましく言ったが、かまわず置いた。
それから精を出して、早く上手になろうと思ってほかのことはかまわず稽古をしたが、翌年より伝受も二つもらった。それから、あんまり叩かれぬようになってからは、同流の稽古場へ毎日行ったが、大勢がよって来て、小吉、小吉と言うようになった。
他流へむやみと遣いに行ったら、その時分はまた剣術が今のようにはやらぬから、師匠が他流試合をやかましく言った。他流は勝負をめったにはしないから、みな下手が多くあった故、おのれが十八の歳、浅草の馬道、生政左衛門という一刀流の師匠がいたが、或る時、新太郎と忠次郎とおれと三人で行って、試合を言い入れたが、早速に承知した故、稽古場へ行って、その弟子とおれとやったが、初めてのこと故、一生懸命になってやったが、向うが下手でおれが勝った。それからだんだんやって、師匠と忠次郎に、政左衛門が体当りをされて、後ろの戸へ突き当てられて、雨戸が外れて仰のけに倒れたが、起きるところを続けて腹を打たれた。この日はそれきりで仕舞ったが、はじめに師匠が高慢をぬかしたが憎いから、帰りにはおれが玄関の名前の札を抜打ちにして持って帰った。それから方々へ行きあばれた。馬喰町の山口宗馬がところへ、神尾、深津、高浜、おれ四人で行って試合を言いこんだら、上へ通して、宗馬が高慢をぬかした故、試合をしようと言ったら、今晩は御免下され、重ねて来いと言った故、帰りがけに入口ののれん[#「のれん」に傍点]を高浜が刀で切裂いて、室へ抛《ほう》りこんで帰った。それから同流の下谷あたり、浅草本所ともに他流試合をするものは、みんなおれがさしずを受けたから、二尺九寸の刀をさして先生づらをしていたが、だんだんと井上伝兵衛先生が、その頃は門人多く、重立った奴等、皆おれが配下同然になり、藤川鴨八郎門人赤石郡司兵衛が弟子団野は言うに及ばず切従い、諸方へ他流に行ったが、運よく皆よかった。他流は中興まずおれがはじめだ。
十八の歳、また信州へ行った。
それからけん見[#「けん見」に傍点]に諸所へ行った。そのうち、江戸でおふくろが死んだと知らせて来たから、御用を仕舞って、江戸へ来る道で、信州の追分で、夕方、五分月代《ごぶさかやき》の野郎が、馬方の蔭にはいって下にいたが、兄貴が見つけておれに
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