だ言え言えというから、おれが国は江戸だ、それに元から乞食ではないと言ったら、馬は好きかという故、好きだと言ったら、一鞍《ひとくら》乗れと言いおる故、襦袢一枚で乗って見せたら、みんな言いおるには、このこぞうめはさむらいの子だろうと言いおって、せんの四十ばかりの男が、おれの家へ一しょに来い、飯をやろうと言うから、けいこをしまい、帰る時、その侍のあとについて行ったら、町奉行屋敷の横町の冠木門《かぶきもん》の屋敷へはいり、おれを呼んで、台所の上り段で、したたか飯と汁とを振舞ったが、旨《うま》かった。その侍も奥の方で、飯を食ってしまって、また台所へ出て来て、おれの名、また親の名を聞きおるから、いいかげんに嘘を言ったら、なんにしろ、ふびんだからおれが所へいろとて、単物《ひとえもの》をくれた、そこの女房もおれが髪を結ってくれた、行水をつかえとて湯を汲んでくれるやら、いろいろと可愛がった。いま考えると与力《よりき》と思うよ。その侍は肩衣《かたぎぬ》をかけてドコへ行ったか夕方うちへ帰った、夜もおれを居間へ呼んで、いろいろ身の上のことを聞いたから、町人の子だと言って隠していたら、いまに大小と袴《はかま》をこしらえてやるから、ここにて辛抱しろと言いおる。六七日もいたが、子のようにしてくれた。おれが腹の中で思うには、こんな家に辛抱していてもなんにもならぬから、上方へ行きて公家《くげ》の侍にでもなる方がよかろうと思いて、或る晩、単物、帯も畳んで寝所に置いて、襦袢を着て、そのうちを逃げ出し、安倍川の向うの地蔵堂にその晩は寝たが、翌日夜の明けないうちに起きて、むやみに上方の方へ逃げたが、銭はなし、食物はなし、三日計りはひどく困ったが、その夜五ツ時分に、堂の縁がわに、どんと音がする故、その音に夢がさめたが、人がいる様子ゆえ、咳《せき》ばらいをしたら、その人が、そこに寝ているは何だと言いおるから、伊勢参りだと言ったら、おれはこの先の宿へばくち[#「ばくち」に傍点]に行くが、この銭を手前かついで行け、お伊勢様へお賽銭《さいせん》を上げるからと言いおる故、起き出でてその銭をかついで行くと、たしか鞠子《まりこ》の入口かと思った、普請小屋へはいりしが、おれもつづいて入りしが、三十人ばかり車座になりおって、おれを見て、その乞食めは、なぜここへはいったと親方らしい者が言うと、連れの人が言う、こいつは伊勢参りだか
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