乗り行きしが、その時は伝蔵という借馬引の馬を借り乗ったが、土手にて一散に追い散らしたが、どこのハズミか力皮が切れて、鐙《あぶみ》を片っぽ、川へ落した、そのまま片鐙で帰ったことがある。

十一の年、駿河台に鵜殿甚左衛門《うどのじんざえもん》という剣術の先生がある、御簾中様《ごれんじゅうさま》の御用人を勤め、忠也派一刀流にて銘人とて、友達がはなしおった故、門弟になったが、木刀の型ばかりを教えおる故、いいことに思ってせいを出しいたが、左右とかいう伝受をくれたよ。その稽古場へ、おれが頭《かしら》の石川右近将監の息子が通いしが、おれの高やなにかをよく知っている故、大勢の中で、おれが高はいくらだ、四十俵では小給者だと言って笑いおるが不断の事ゆえ、おれも頭の息子ゆえ内輪にして置いたが、いろいろ馬鹿にしおる故、ある時木刀にて思うさま叩き散らし悪態をついて泣かしてやった。師匠にヒドク叱られた。今は石川太郎右衛門とて御徒頭《おかちがしら》をつとめているが、古狸にて今に何にもならぬ、女をみたような馬鹿野郎だ。

十二の年、兄貴が世話をして学問をはじめたが、林大学頭《はやしだいがくのかみ》のところへ連れて行きおったが、それより聖堂の寄宿部や、保木巳之吉と佐野郡衛門という肝煎《きもいり》のところへ行って、大学を教えてもらったが、学問は嫌い故、毎日毎日、桜の馬場へ垣根をくぐりて行って、馬ばかり乗っていた。大学五六枚も覚えしや、両人より断わりしゆえ嬉しかった」
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 先生から見放されて、嬉しかったという奴もなかろう。こういう出来の悪い奴の子に、麟太郎のような学問好きが出来たのも不思議と、神尾が思って読みました。

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「馬にばかり乗りし故、しまいには銭がなくって困ったから、おふくろの小遣《こづかい》またはたくわえの金を盗んで使った。(そろそろ盗みがはじまったよと神尾がザマを見ろという面《かお》をする。)

兄貴がお代官を勤めたが、信州へ五カ年詰めきりをしたが、三カ年目に御機嫌伺いに江戸へ出たが、その時おれが馬にばかりかかっていて、銭金を使う故、馬の稽古をやめろとて、先生へ断わりの手紙をやった、その上にておれをヒドク叱って、禁足をしろと言いおった、それから当分うちにいたが困ったよ。

十三の年の秋、兄が信州へ行ったからまたまた諸方へ出あるき、おれのばばあ
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