「知ってる、僕も名前だけは大いに聞いている、それから最近、お角という奴が、妙に胡麻《ごま》をすっていることも知っている」
 お角という奴が、胡麻をするかすらないか、そんなことはよけいなことだが、とにかく、藤原の伊太夫には相当|知音《ちいん》の間柄と見える。その点を健斎が説明して言うには、
「その藤原の伊太夫というのは、親父《おやじ》の代からの懇意で、出府の前にはよく往来したものだが、その伊太夫が今度、上方へやって来て、大谷風呂に逗留しているのだ」
「そこへ、君がまた胡麻すりに来たのか」
「よせやい、おれはこう見えたって、財閥に胡麻をするひまはないんだ、ただ、その旧知の縁によって、伊太夫から招かれたんだ。ただ招かれたんでは、そう安々と出て来るわけにはいかないが、旅中、同行の中に急病者が出来たから、枉《ま》げて都合して来て見てくれないかという急の使だから、早速やって来てみたところなのだ」
 健斎が、こう言ったところを以て見ると、ますます同業者ということがわかる。同時に健斎の家は、田辺でも代々旧家の方で、相当の貫禄があるのだから、伊太夫に招かれたからと言って、そう安々とは出て来られないはずだが、病人ありと聞いては、職業柄、猶予はできないで、駈けつけて来たというのは、聞える道理だが、そのくらいなら、ナゼ道庵に頼まない! という不服が、道庵の胸三寸に、ちょっと、つむじを捲かせました。そうして不服を包んでいる道庵でないから、忽《たちま》ちにムキ出してしまって、
「なに、伊太夫に急病人が出来たから、わざわざ田辺まで君を招きに行ったのか。人をばかにしていやがら、つい端近《はしぢか》に、この道庵というものが控えているのを知りながら、ほかへ使をやるなんて、胡麻すりのお角もお角じゃねえか」
とこう言いました。道庵の気象を呑込んでいる健斎だから、そんな不服は深くは取上げない。
「いや、それには何か特別の事情があるらしいのでね、近所の医者では都合が悪かったのだろう、実は普通の病人ではないのだ、水死人なのだ、水に溺《おぼ》れた人を、伊太夫殿が湖水から掬《すく》い上げて来て、それを一室に匿《かく》まい、治療をさせようという次第で、急に僕のことを思い出して使を立てたものらしい」
「ははあ、あいつら、竹生島へ参詣をかこつけて、デモの避難を試みたそうだが、では、その途中、水死人を拾い上げでもして来
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