つあるのです。
 イエス・キリストを信ずることに於て、清澄の茂太郎の揶揄《やゆ》の的となっている金椎少年が、一心に行手の海に向って祈っている。他の者ならば、人の気配を感じて退避すべき場合も、この少年には響かない。駒井もまた、茂太郎の出鱈目《でたらめ》の歌と、金椎の沈黙の祈りとは、この船中の年中行事の一対として、とがめないことになっている。
「祈っているな」
 ただそれだけで駒井はまた、行きつ、戻りつ、思索の人に返りました。

         三十一

 祈りつつある金椎の姿に、一時《いっとき》驚かされた駒井甚三郎は、また本然の瞑想にかえって、ひとり甲板上を行きつ戻りつしました。
 知識があればあるほど、考えが複雑になって、最後の決断の鈍るのを、自分ながらどうすることもできません。
 こういう時には、天啓ということを、科学者なる駒井甚三郎も考えないということはありません。また卜占《ぼくせん》ということに思い及ばないではありません。何か天のおつげがあって、南へ行けとか、北がよろしいとかの示教があるとしたら妙だろう。また、卜占というものにある程度までの信が持てると、それに着手しないという限りもなかったのですが、駒井甚三郎は、そのいずれをも信ずることができない人です。人間以上に、神だの、仏だのというものがあって、人間の都合によってそれが指図をしてくれるなんぞということは、ナンセンスで、取上げたくても取上げられない。
 易《えき》だの卜《うらない》などということは、それこそ薄志弱行の凡俗のすることで、人間に頭脳と理性が備わっていることを信ずるものにとっては、ばかばかしくて取上げられるものではない。だが、この時は、知識と、認識と、自分の思考だけでは、さすがの駒井にも適切な判断は下せない。いっそ、ばかばかしければばかばかしいなりに、梅花心易《ばいかしんえき》というようなものにたよって、当座の暗示を試してみるも一興である。岐路に迷い、迷い抜いたものが、ステッキを押立てて、その倒れた方を是が非でも自分の行路と定めようということなどは、賢明な人の旅行中にもないことではない。この際、そういったような梅花心易はないか――つまり、時にとっての辻占《つじうら》はないかというところまで、駒井甚三郎の頭が動揺してきたのも無理のないところがあります。
 駒井は天上の星を見て、あの星が一つ南へ流れた
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