ら先は……」なんかんと納まり込んで、さしも街道名代の草津の晒し場を、ムニャムニャのうちに突破して、ここへ無事に到着の段取りと解釈のできないこともない。
 いずれにしても道庵先生は、自分が唯一無二の股肱《ここう》と頼み切った米友が、今日明日のうちに首がコロリという、きわどい、危ない運命のほどを、一向に御存じないことだけは確かなものです。
 さればこそ、この油断も隙もないもてなしを、遠慮会釈もなく引受けて、太平楽に納まり込み、
「江戸を一歩一歩と離れるのは、それだけ故郷に対して一歩一歩と淋《さび》しくもあるが、京へ一歩近づくほどに、酒《こいつ》がよくなるのは有難え。江戸は道庵が第一の故郷である、酒は第二の故郷である、第一の故郷を離れて、第二の故郷へと進んで行くんだ、有漏路《うろじ》より無漏路《むろじ》に帰る一休み、と一休坊主が言ったのは、ここの呼吸だろうテ」
 途方もないでたらめを言いながら、たしかに吟味してある酒と、これは吟味しなくともおのずから備わる湖上の珍味とを味わいつつ、ひたすら興に乗ってしまい、いったい訪ねて来た相手のお角親方はどこへ行った、いつ帰るのだ、と駄目を押すことさえ忘れている。この酒と、この肴《さかな》さえあれば、尋ねる主などは、いてもいなくても差支えないという御輿《みこし》の据《す》えぶりでしたが、宿ではあらかじめ、かなりにその予備知識が吹き込んで置かれてありましたから、さのみ驚きません。
 道庵先生は、いよいよ御機嫌斜めならず、しきりに管《くだ》を捲いたり、取りとまりもないことを口走ったりしておりましたが、相手の年増女中がいっこう気のないのを見て取って、
「お前、あっちへ行きな、おらあひとり者なんだから、この手酌でチビリチビリというやつに馴れてるんだ。そうして置いて、頃を見計らって、お代り、お代りと持って来て、そこへ置きっぱなしにして、そうして行っちまいな――いい、おらあ、ひとりで、チビリチビリと独酌というやつでねえと、酒が旨《うま》く飲めねえたち[#「たち」に傍点]なんだから――」
と、また一本の徳利を逆さに押立てて、したみまでも、しみったれに猪口《ちょく》の中へたらし込みながら顎《あご》でそう言いましたから、女中も心得て、
「それでは、失礼させていただきまんな、御自由に、たんとお上りあそばせ」
 女中を追払ってしまった道庵は、いよいよいい気に
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