で見えました。
「梶川様、よくおっしゃって下さいました、わたくしも未練のようでございますが、こればかりは思いきれませぬ、あの系図を奪われて何の銀杏加藤でござりましょう、あれを持たないで肥後の熊本へ帰って、どうして御先祖清正公の霊に申しわけが立ちましょう、梶川様、あなたよりも、わたくしがさきにその決心をきめてしまいました、僅かに尾張の国を一足出たばかりで、あれが盗まれるというのは、決してあなたの抜かりではござりませぬ、わたくしたちの不用心でもござりませぬ、あの系図に魂があって、肥後の熊本へ行きたがらないのです、やはり、尾張の国に留まっていたいからなのです。いつも申します通り、肥後の熊本は、加藤清正の国ではないのです、加藤清正の産湯《うぶゆ》を流したところは、この尾張の国の中村なのです、肥後の熊本の城も、清正の築城には相違ありませんけれども、それよりも一層この尾張の名古屋の城に清正の精神が籠《こも》っているのです、それですから、わたくしは、どうしても、あの名古屋城の鯱《しゃちほこ》の見えないところへは行きたくないと、日頃から申しておりました、系図も尾張の国にとどまりたい、わたくしたちも尾張を去るなという、清正公のお示しではないかと思い当りました。けれども、肥後の熊本で静かに病を養いたいというこの子の希望もさまたげる気はありません、お前はお前で、心任せに熊本へおいでなさい、そうして、梶川様、あなたもどうか弟を見まもって九州へおいで下さい、わたくし一人が残ります、わたくしは清洲の侘住居へ一人で帰ります。系図の行方にも、心当りが充分にあるのです、必ずわたくしの真心が通じさえすれば、再びあの系図が、わたしの手許へ帰ってくると、確かにそう信じられてなりません――わたしでなければ駄目です、わたしは尾張へ戻りますから、梶川様、あなたは友人として、病身のわたしの弟をいたわって、熊本へお越し下さいませ」
 銀杏加藤の奥方は美しい面に強い決心の色を見せて、きっぱりとこう言いました。

         九十二

 感謝と昂奮に緊張した梶川与之助は、奥方の強い言葉に頓《とみ》に言葉を返すことができないでいると、傍に寝《やす》んでいた伊都丸が、夜具の中から言葉をかけて、
「姉上――そうおっしゃる、あなたのお心持がよくわかります、日頃のあなたの御精神がそれなのです、姉上が留まるとおっしゃるなら、
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