振わねえから、戦《いくさ》なんぞ勝てっこはねえさ」
「旗本が駄目なんだ――だが、長州というやつも図太いなあ、てんで将軍様を嘗《な》めてやがるんだぜ、この前、江戸から、ソラ、中根何とかいう大目附がお使番として長州へ乗込んだろう、あの時、お前、幕府のお使番といやあ、将軍様の名代《みょうだい》だろう、そのお使番を長州がなぶり殺しにしちまったんだぜ、そうしてその言い草が、また図々しい。それをお前、幕府の方で、てんで手出しができねえで、うやむやにされちまったんだから、嘗めたものだ、旗本もこう嘗められちゃたまらねえ」
「それにお前、この骨ヶ原で、あの、それ、吉田寅次郎がお処刑《しおき》になって、首が上ったろう、そうしてお前たちと、あそこの角んところへ胴中《どうなか》を埋《い》けたろう、そうすると、お前、その翌日だったか、もう長州ざむれえ[#「ざむれえ」に傍点]がやって来て、その屍体を掘り出して、首をあの台から卸してつぎ合わせて、同勢が馬に乗り、槍をもって引上げて、上野の三橋の前を大手を振って通って行ったが、町奉行の役人は見て見ねえふりさ。何しても長州ざむれえの元気はすばらしいが、江戸の旗本はみじめなもんだ、骨がねえんだ」
「そうすると、徳川が亡ぼされて、江戸が灰になって、旗本八万枚の干物が出来るのも遠からずだあな」
「遠からずだあ」
神尾主膳は、もはや我慢なり難く思いました。ところが人里を離れた骨ヶ原の中で、往来の人もない、聞く人もないと思って、出放題も程のあったものだ。隠亡風情《おんぼうふぜい》の身で、将軍家と旗本に向って、聞くに堪えぬ暴言雑言《ぼうげんぞうごん》、憤怒に駆られた神尾主膳は、前後をおもんぱかる暇《いとま》もなく、
「コラ、無礼者、貴様たち、言語道断の代物《しろもの》、覚悟いたせ」
こう言って、闇中から罵詈怒号《ばりどごう》した神尾主膳の一言に、隠亡どもの驚愕狼狽は譬《たと》うるにものなく、焚火を踏み越え、卵塔を飛び越えて闇中を逃げ出しました。
隠亡共を叱り飛ばすと共に、神尾主膳もそれと反対の方面へやみくもに逃げ去りました。
八十六
それから、神尾主膳は、どこをどうしたか、翌朝は根岸の三ツ目屋敷に戻って来て、思いきり朝寝をして、日のかんかんする時分に、やっと眼が醒《さ》めました。
眼がさめたけれども、主膳は容易に頭を上げません。こ
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