はいざ知らず、日本には無いはずであります。だが、往来の人は、別段この農奴[#「農奴」に傍点]の文字には咎《とが》め立てをしないで、
「ははあ、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]者だな」
「なるほど、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]でげすな」
「ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]おますさかい」
「ふ、ふ、ふ、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]者めが……」
などと言い捨てて通るものが多い。それによって見ても、農奴の文字よりは、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]の文字が四民の認識になじみ[#「なじみ」に傍点]が深いらしい。
ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]といえば、すでに、ははあ、と何人も即座に納得が行くようになっている。その一面には、農奴は農奴でそれでもよろしい、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]に至っては、赦《ゆる》すべからざるもの、赦さるべからざるもの、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]の罪なることは、まさにこの刑罰を受くるに価すべくして、免るべからざる適法の運命でもあるかの如く、先入的に通行人の頭を不承せしめて、是非なし、是非なしと、あきらめしむるに充分なる理由があるものと解せられているらしい。
然《しか》らばちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]とは何ぞ。
二
ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]は即ち「逃散」であります。現代的に読めば「とうさん[#「とうさん」に傍点]」と読むことが普通である。「逃」をちょう[#「ちょう」に傍点]と読むことと、とう[#「とう」に傍点]」と読むことだけの相違なのです。これを訓読すれば、「逃げ散る」というのほかはない。
そこで、農奴なる分際のこの晒《さら》し者《もの》は、「逃散」の罪によって、ここにこの刑に処せられているという観念は明瞭になりましたが、それはただ、捨札に表われている文字だけの意味のことであって、これを本人の方より言えば、宇治山田の米友が、ここで、どうして「農奴」という身分証明の下《もと》に、更に「逃散」という罪名を以て、今日この憂目《うきめ》を見なければならない事態に立至ったのか、その観念に至っては、明瞭なるが如くして、未《いま》だ甚《はなは》だ明瞭を欠くのであります。
米友が、賤民階級に生れ出でたということは、本人自身も隠すことはしない。しかしながら農奴[#「農奴」
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