ませんでした」
「ばかな、そんなことがあるものか、一時は名残《なご》りを惜しむのも人情だが、いよいよの時にああしておれるものかな」
「ところが、これはもちろん、わたしの心持だけなんですが、あの人たちは、あれは、たしかにお墓と心中するつもりなんですよ、心持は面《かお》つきにあらわれるものです」
「ふーむ、君の眼ではそう見えたかな」
「見えましたとも、動きませんよ、あの人たちは、ああして、いよいよ水の来るまでお墓を離れない決心だと、わたしは見極めてしまいました」
「そんなことがあるものか、一時の哀惜と永久の利害とは、また別問題だからな、そうしているうちに、相当の換地が与えられて、第二の故郷に移り住むにきまっているよ」
「それは駄目です、あなた」
「どうして」
「あなたという方には、故郷の観念がお有りになりません」
「ないこともない」
「有りませんね、あなたは、早く故郷というものを離れておいでになったのでしょう、ですから、故郷というものの本当の味がおわかりになりません。たとえ、故郷に十倍のよい地面を与えられたからといって、欲得ずくでは故郷を離れる気になれるものではございませんよ。わたしのように、旅から旅を稼《かせ》いでいる身になってみると、その心持がよくわかります。あの人たちは、たとえどんな住みよい土地が与えられたからと申しましても、それへ行く気にはなれない人たちですから、結局、お墓を抱いて水の底に葬られて行くのです。それにあなた、あの人たちは平家の落人《おちうど》の流れだというではありませんか」

         五十一

「平家の落人《おちうど》の流れだから、どうしたというのだ」
「そこですよ、あなた、平家は源氏と違って、人情の一族だということを御存じになりません?」
「うむ」
「平家は一族盛んな時には栄燿栄華を極めましたけれど、亡びた時は、一族みんな一緒でした、そこへ行くと源氏は、父を殺したり、叔父を殺したり、兄弟が攻め合ったり、殺し合ったり」
「なるほどな」
「感心して聞いていらっしゃるわね。あなたより、わたしの方が学者なんです、耳学問が肥えていますから――ところで、その平家の一族は、源氏に追いつめられて、もはや地上では生きられないから、一族がみんな水の底に……御存じでしょう?」
「知っている」
「平家というお家柄は、みんな、そうした人情に厚いんです、ですから、
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