、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が急にうなり出しました。
 さも苦しそうに蒲団の中でうなり出したものですから、その声を聞くと、道庵先生が急に我が意を得たりとばかり、
「そうら見ろ」
 何が、そうら見ろだか、この言葉の分限がはっきりわからない。自分の勘が当ったという満足か、或いは、そうら見ろ、病人だ、医者と病人は附きものだ、唸《うな》るくらいならナゼ、もっと早く唸らない――というほどの意味であったか、その意味はよくわからないが、道庵は、荒っぽく引剥《ひんむ》きもしかねまじき勢いの屏風《びょうぶ》をそっと押して、のこのことこの中へ入って来ました。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、手拭を畳んで頭から額の方へ載せ、掻巻《かいまき》を頭までかぶらせてカモフラージを試み、そうしてさも苦しそうに、うんうんと唸りつづけている。
「何だい、お前さん、病人なら病人と最初から言ってよこすがいいじゃねえか、隠れ忍んでいると、梁上《りょうじょう》の君子と間違えられらあな。どこが悪い、苦しいか、どこが苦しい、さア、脈を見てあげる、手をお出し、腕をお出しよ、脈を見てあげるから、右の手を出してごらん――腕をお出しということさ」
 道庵の押売り親切――脈を見てやろうと、余りある好意を、この病人が、遠慮か、謙遜か、腕を出そうともしない。押売る以上はどこまでも強く押売らなければならないと、道庵は相手が剛情なら、こっちもいよいよ剛情になるつむじ曲りを発揮して、
「出さねえか、拙者が脈を見てやるというに、遠慮をして、腕を出さねえ病人もねえもんじゃねえか。いよいよ出さねえとなると……」
 道庵は意地になって、自分の手を夜具蒲団の中へつっ込んで、いやおういわさず、この病人の腕を引きずり出して脈を見てやろうとしたが、
「おやおや」
 あるべきはずの手ごたえがなかったので、道庵が一方《ひとかた》ならずテレてしまいました。

         三十四

 多景島《たけじま》の庵《いおり》に行いすましていた弁信は、全く落着かない心で、安祥《あんじょう》の座から立ち上りました。
「落着きません、竹生島へ渡ろうとして、はからずもこの島へ寄せられたことも一つの御縁と存じまして、ここで多少の修行を致してみるつもりでございましたが、この心が落着きません、つなげる駒、伏せる鼠でございます、この通り、四面水を以て孤絶され
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