ならないから、お雪ちゃんの提出する一茎一草について、流るるが如く立派に答えつ教えつしてのけることも不思議ではない。道庵も多年この道で飯を食い、天下のお膝元で十八文の道庵先生といえば、飛ぶ鳥を落したり、落さなかったりしているのですから、医学と密接の関係がある本草《ほんぞう》の学問に於ても、そう出放題や、附焼刃ばかりで通るものではありますまい。お雪ちゃんが提出するほどのものは、いちいち苦もなく取って投げたが、そのうちに、ちょっと一つにひっかかって眼を白黒し、
「うむ、ええと、こいつは……こいつはちょっと難物だぜ、大医博士深根輔仁《おおいはかせふかねすけひと》の『本草和名《ほんぞうわみょう》』にもねえ全く変り種だ、だろう、多分なあ、こいつがそれ、キバナノレンリソウとでもいうやつなんだろう、確《しか》とは言えねえがね。なんしろ、お前さん、この胆吹山というやつが、織田信長の時に、薬園相応の土地だとあって、五十町四方を平らげて薬草を植えたんだからな。その種類が、ざっと三千種に及んでいるということだから、道庵がいかに博学だって、お前、そうは覚えきれねえわな。それにお前、大医博士深根輔仁の本草ばかりじゃあ間に合わねえ、キリシタンバテレンの宣教師てやつが、あっちの薬草を持込んで植えてるから、どうもいけねえよ、キリシタンバテレンは昔から道庵のお歯に合わねえのさ」
と言って、道庵先生は、薬草の中のわからないのを一つごまかしてしまいました。
 お雪ちゃんは別に、道庵先生を困らせて手柄とするために難問を提出したわけではないから、そのくらいで打切って、そのまま、道庵先生に引添うて登りにかかりましたけれども、きりっと足ごしらえをしているに拘らず、道庵の足許が甚だあぶないのは、いよいよ以て先生のハイキングが怪しいものであり、お雪ちゃんが、白骨、乗鞍、上高地の本場で鍛えた確実なステップを踏んでいることがわかります。

         三十四

 お雪ちゃんは言いました、
「ねえ、先生、あなたもこの胆吹王国の一人として、わたしたちと一緒にこの館《やかた》へ、末長くお住いになりませんこと」
「ははあ、そりぁなんしろ愚老一生涯の大事だから、そう右から左へ即答はできない。だがお雪ちゃん、お前さんという人は、わしぁ好きだね。お前さんのような娘が、しょっちゅう傍についていてくれるところならば、永住してみてもいいと思うが、いったい、その胆吹王国というのはどういう性質の組合なんだか、そいつを聞かしてもらいてえ」
「王国なんて、ずいぶん僭上《せんじょう》な呼び方かも知れませんが、不破《ふわ》の関守さんが、冗談におつけになったんですから、お気になさらないでお聞き下さい」
「そりゃ、帝国なんて言おうものなら口が裂けるけれど、王国ぐらいならいいさ、三井王国《みついおうこく》だの、鴻池王国《こうのいけおうこく》だの、ずいぶん言い兼ねねえ」
「このことの起りは、あのお銀様の頭脳《あたま》一つから出たことなんです。あのお銀様って、どうも不思議なお方ね、とても頭がいいんです、それに、どのぐらいお金があるか底の知れないというお家にお生れになったんですから」
「ははあ、道庵なんぞはそれと正反対だね、頭の悪いことは無類だし、お金なんぞは商売物の薬にしたくもねえ――」
と道庵が、げんなりしたが、お雪ちゃんは悄気《しょげ》ませんでした。
「そうして、この胆吹山の麓に、見渡す限り広大な地所をお求めになったのです、今はとりあえず身近の人たちだけの館を造っておりますが、これから大きな御殿を建てて、望みを持った人たちにはみんな集まってもらい、今の世間と全く違った世界を、この胆吹の山の麓に新しくこしらえ上げるんですって」
「なるほど――」
「そこで、この胆吹王国では、どうも少しむずかしい言葉なんですけれど、人間が絶対に統制されるか、そうでなければ絶対に解放されるんだと、関守さんも申しておりました」
「うむ、なかなかむずかしい」
「それにはまず、ここに住む人たちがみんな、自給自足と言いまして、生活は直接に土から取って、人に衣食をさせてもらわないこと、人に衣食をさせてもらいさえしなければ、人間が人間に屈従しなくてもよろしい、ですから、ここに集まる人は、自分で自分の食べることだけはしなければならない、それが自由にできるようにして上げるのだそうです」
「それは賛成だね、国中へ穀《ごく》つぶしを一人も置かねえということになると、みんなの励みにならあ。だがねえ、お雪ちゃん、そうしてみんな働いて衣食を生産して食うということになると結構は結構だがね、まあ、愚老はまず商売柄のことから言うがね、病人が出来たらどうするんだ、病人が――病人を取捉まえて衣食を生産しろとは言えめえ」
「そりぁ先生、そんなことは人情で分っているじゃありませんか、誰も好んで病気になる人はありませんから、病人が出来れば、当人にもゆっくり休ませるように、その仕事は、いくらでも代ってして上げるようにできるじゃありませんか」
「そうか、それはそれでいいとしてだ、では、病人に対するお医者の方へ廻るがね、お医者をどうするんだ――なかなかこれで、十年や二十年|薬研《やげん》をころがしたって、誰にも代ってやれるという商売ではねえ――」

         三十五

「ですから、その道の人はその道の人を頼まなければなりません、その道の人を頼むと言いましても、なかなか変った人でなければこういうところへは来てくれません、来てくれるような人は未熟の人か、世間を食い詰めたような人、そこへ行くと先生なんぞは、人間も変っていらっしゃるし、腕の方も大したものですから、先生のようなお方がこの胆吹王国にいらしって下さると、ほんとうに願ったり叶ったりだと思いますわ」
「こいつは見立てられたね――」
 道庵は頭を丁と一つ平手で叩きました。
「ですからね、先生、お江戸の方はお弟子さんに譲って、ぜひこちらへいらっしゃいよ、ここならば京大阪は近いし、江戸へおいでになりたければ一足で海道筋です、わたしがついていますから、お身の廻りのことは御不自由はおさせしませんから、別に億劫《おっくう》なお気持をなさらずに、胆吹山の別荘へ御隠居をなすったと思って、こちらの人におなりなさいな」
「お雪ちゃんに、そう言って口説《くど》かれると道庵たまらないね、ついふらふらと、その気になってしまうよ」
「その気におなりなさいまし、わたし一生懸命、先生を誘惑するわ」
「誘惑は驚いたね。だが、この年になって道庵も、お雪ちゃんのような若い娘に誘惑されるなんぞは嬉しい、嬉しい」
「先生がお連れになった、あの米友さんだって、もうこっちのものよ」
「そうして、我々仲間をみんな誘惑して、胆吹王国の一味徒党の連判状にしようなんて罪が深い!」
「ですけれど、むりやりに首に縄をつけてもというわけじゃありませんのよ、相当の理由があればいつでも組合を外《はず》れていいことになっておりますから、そこは安心して、ともかくも先生、少しの間この組合に入ってみて下さらない、わたしも、はじめのうちはあのお銀様というお方が、全く気の置ける、怖い、やんちゃな、我儘《わがまま》なお嬢さんだとばっかり思って、縛られたつもりでいましたが、だんだんわかってきてみると、全く感心させられてしまうところがありますのよ。それは、あのお嬢様には、性格としてはずいぶん欠点もございますけれども、それはあの方の周囲の境遇がさせたものだということがよくわかってみますと、わたしはあのお銀様の本質は、どちらから見ても立派なものだとしか思われません。だんだんにお銀様の怖いところがなくなって、その偉いところに感心させられるようになってしまい、今ではあのお銀様の仕事のためならば、身体《からだ》を粉にしても助けたい、そのお志を成就《じょうじゅ》させてあげたいと、こんなに考えるようになりました。ですから、わたしは、もうこれから、あのお嬢様のために口説き役をつとめます、それこそ、いま先生のおっしゃる通り、誰でも、これぞと思った人はみんな誘惑してこっちへ引きよせることにはらをきめました」
「そうはらをきめられちゃあ、もう助からねえ」
 道庵が悲鳴に類する声を上げるのを、お雪ちゃんが起しも立てず、
「ねえ、先生、ですから、京大阪を御見物になって後、一旦お江戸へお帰りになるならなるで、それはお留めはいたしませんが、お江戸の方をしかるべく御処分なすって、ぜひ、こちらへいらっしゃいね。ね、約束しましょう、げんまん」
「どうも、そう短兵急にせめ立てられちゃあ、道庵、旗を巻く隙もねえ」

         三十六

 こんな問答をしながら、薬園のあたりから道庵先生を程よいところまで送って、お雪ちゃんは、ひとり上平館へ帰って来ました。
 帰って来るとお雪ちゃんは、目籠を縁側へ置いて、姉さんかぶりを取ると、いつものお雪ちゃん流の洗下げ髪を見せ、館《やかた》の工事場の方へ、とつかわと出て行ったが、そこには工事監督の不破の関守氏が行者のような風《なり》をして立って、早くもお雪ちゃんの来るのを認めている。お雪ちゃんが、
「関守様、あのお医者の先生とお薬草を調べに参りました、お銀様はまだお帰りになりませんか」
「それそれ、心配するほどのことはありませんでしたよ、お銀様は長浜の町へ行っていらっしゃるんで、今の先、使があったんだ。でね、ちょっと思い立って長浜まで出かけたが、ここへ来てみると、どうしても湖水めぐりをしてみたいとおっしゃって、これから長くて六日一日の間に八景を舟で一まわりして来るつもり、あとのところをお雪ちゃんと拙者に万事御依頼するから、よろしくという使の手紙なんだ」
「まあ、お銀様がお一人で湖水めぐりをなさるんですか」
「いや、そういうわけではない、この手紙の内容によって察すると、弁信殿も、米友公も、よそながらお銀様が遠眼をつけていらっしゃるようだから、ことによると、あの連中をみんな一緒にして、舟を一つ借り切って遊覧をなさるつもりかも知れない、そうでなくても、この浜屋という宿は拙者が心づけをしてあるから、お銀様の身のまわり一切、心得て世話をしてくれるはずだ、ともかく、この七日ばかりの間は、お雪ちゃんと拙者が、万事この王国をあずからなければならん」
「湖水めぐりをなさる時には、必ずわたしも連れて行ってやると、お銀様はおっしゃっておりながら、それに弁信さんとも約束をしていたはずなのに、みんな、わたしを置いてけぼりにして行ってしまいなさるのが口惜《くや》しいわ」
「いや、なに、そういうわけではない、あの連中のやることは、てんでに気の向き次第だから、約束が約束にならないところに妙理があるのさ。というものの、我々に後を託して置けばこそ、気まぐれに他出ができるという信頼が、こっちにあるからなんだ。つまり、お雪ちゃんとこの拙者に王国を任せて置けば、七日や十日留守にしたからとて心配がない、と思えばこそなんだ。そこまで信頼されているとすれば、留守居もまた妙じゃないかね」
「わたしなんぞは何のお役にも立ちませんけれど、そういうわけでしたら、喜んでお留守をつとめましょう、事がわかりさえすれば、どのみち安心でございます」
「お銀様のことだから、きっと、相当の船を一ぱい借切って、自由自在に湖の中を乗り廻し、思う存分に見物をしておいでなさるに違いない、我々は、われわれとして、入り代りにひとつ第二軍を実行させてもらいましょう。どうです、江戸のあのお医者の先生にも少し逗留《とうりゅう》していただいて、あの先生をひとつ長浜から、大津まで送りがてら、お雪ちゃん、拙者をはじめ、同志を募集して湖上遊覧の第二軍をこしらえようじゃありませんか」
「それは結構でございますが、あの先生が、それまで待っていらっしゃるかしら。大津に、お連れの方がお待兼ねになっていらっしゃるようでございます」

         三十七

 不破の関守氏とお雪ちゃんがこんなことを話しているところへ、仕立飛脚が一人、息せき切ってやって来ました。
「ちょっと、ものをお尋ね申し
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