ですか、この夜中に、あの人たちが……」
「ところが、どうです、お松さん、そらごらんなさいませ」
「どうしました」
「そら、バッテイラが戻って来ます、海の上を真一文字にバッテイラが、こちらへ向って来ます――バッテイラの舳先《へさき》には、カンテラが点《つ》いています」
「本当ですか」
「本当ですとも――お松さん、あたいの眼を信用しなさい」
と清澄の茂太郎は、海の彼方《かなた》の万石浦《まんごくうら》の方を見つめながら言いました。
茂太郎から、眼を信用しろと言われると、お松もそれを信用しないわけにはゆきません。茂太郎だの、弁信だのというものの五官の機能は、特別|誂《あつら》えに出来ているということを、日頃から信ぜざるを得ないのです。だが、この夜中に、あの駈落者の二人が、舟で舞い戻って来るとは考えられない。
そこで、半信半疑で、お松も暗い海の面をながめやりました。
百四十三
だが、ほどなく、茂太郎の予告の確実性を、事実がよく証明してくれました。
漁船の中を押しわけて、万石浦方面から飛ぶが如くにバッテイラが漕ぎつけられて来るのは、その舳先のカンテラの進行だけでもよくわかる。
それと知って、船の乗組は一度に動揺しました。
「なに、マドの奴が帰って来たと、よく面《つら》を面と戻って来やがった、今度こそは、とっつかまえて、ぶっちめろ」
さすがに訓練されたこの船の水夫たちが、手ぐすねを引くのも無理のないところであります。
お松は、それをなだめるのに力を尽しました。
「たとえ、あの人が悪いにしても、戻って来たからには、きっと、後悔をして、お詫《わ》びをするつもりで来たのでしょう、それを、いきなり手込めにはできません、船長様の御裁判を仰いで、それから処分をしなければならないのです、皆さん、決して、手荒なことをなさいますな」
ほどなく船腹へ漕ぎつけられたバッテイラには、紛うかたなきマドロスがいる。兵部の娘らしいのが面《かお》を蔽《おお》うて寝ている――
「田山先生」
と、お松が一番先に出て、このバッテイラを迎えると、当然、保護して来たと思われる田山白雲らしい姿も、声もないのが、やや異常に感じさせました。
「この船は、駒井甚三郎殿の無名丸でございますな」
容貌|魁偉《かいい》なる田山白雲の姿の見えない代りに、短身長剣の男が一人|舳先《へさき》に突立って、ものを言いかけましたから、
「はい、さようでございます」
とお松が答えました。
「拙者は、田山白雲先生から頼まれまして、二人の人を送ってまいりました」
「それはそれは、御苦労さまでございます、どうぞ、それからお上りくださいませ」
無名丸の方でも、篝《かがり》を焚き、梯子を投げかけてくれたものですから、その時バッテイラの舳先にいた短身長剣の男が、櫓《ろ》を控えてテレきっているマドロスを促して、
「マドロス君――君さきに上り給え、そうだ、萌《もゆる》さん――君、マドロス君、萌さんをおぶって上り給え」
「キマリ悪イデス」
マドロスが、いやに尻込みするのを、短身長剣が、
「きまりがいいも悪いもない、君、そのままで萌さんをおぶって、早く上り給え」
「デハ――もゆるサン……」
マドロスが無恰好の背中を向けると、毛布を頭からすっぽりかぶったままの兵部の娘を、短身長剣が押しつけるようにして、マドロスの背中にたける[#「たける」に傍点]と、やむことなく、それをおぶい、それにおぶさって、二人はまずバッテイラから本船に乗り移る。出でむかえて見ている水夫共は、苦々しい面をして睨《にら》みつけているが、さすがに、それをぶちのめす者もない。お松だけがかいがいしく、
「マドロスさん、あなたにも全く困りものです、みんながドノくらい心配したか知れやしません、まあ、ともかく、わたしの船室へいらっしゃい、委細をお話ししてから、船長様へ、わたしがお詫びをしてあげます」
百四十四
最後にバッテイラから、本船に上った短身長剣――柳田平治は、
「では、君たち、あの小舟の始末を頼むよ」
と言い捨てて、続いて船室へと導かれて行こうとすると、そこへ、いつのまにか檣《ほばしら》の上から下りて来た清澄の茂太郎が立ち塞がって、
「君――田山先生は帰らないの」
「あ、田山先生はな……」
と柳田平治は、この少年のために甲板の上に暫く抑留の形となって、
「あとから帰るよ」
「では、七兵衛おやじは――」
「七兵衛おやじ――そんな人は知らんよ、そんな人は知らないけれど、田山白雲先生は、もう三日したらこの船に戻られるはずだ」
「そうですか――さあ、その三日のうちに、七兵衛おやじが見つかればいいが……」
柳田平治は、この少年の、ませた口の利《き》きぶりを怪しむのみではない。その後生大事に左の小脇にかいこんでいる何物をか、よく見ると、それは一箇の般若《はんにゃ》の面に相違ない。そこでなんだか一種の幻怪味に襲われながら、
「それは、見つかるだろう」
「そうかしら、あたいは、どうもそれが覚束《おぼつか》ないと思うんだが」
「見つかるよ、心配し給うな」
柳田平治は、七兵衛おやじの何ものであるかを知らない。また、この少年の何ものであるかを知らない。だが、田山白雲が、この二人の駈落者のほかに、まだたしかに尋ねる人があるらしいことだけは、相当に合点《がてん》している。その者がいわゆる七兵衛おやじなる者だろうか。果して田山白雲が、この二人の駈落者を突留め得た如く、七兵衛おやじなるものを捕え得るかどうかということには、全然当りがついていない。しかし、この舟の者が、こうまで心配していることを見計らって、相当の気休めを言ったつもりなのだろうが、それを肯《うけが》わない清澄の茂太郎が、
「そうはいかないよ、君、そう君の考えるように簡単に見つかりませんよ、七兵衛おやじは……」
意外千万にも、このこまっちゃくれた少年はこう言って、柳田の一片の好意を否定してかかりましたから、ここでも柳田平治は、ちょっと毒気を抜かれて、
「ナニ、つかまるよ、田山白雲先生は豪傑だから、直ぐ捉まえて縛って連れて来るよ、安心し給え」
こう言うと、この幻怪なる少年が、いよいよ承知しませんでした。
「君、それは違うよ、田山先生は、マドロス君とお嬢さんを捉まえに行ったのは本当です、あの二人は駈落者《かけおちもの》なんだから、それを捉まえて逃さないように、場合によっては縛っても来ようけれど、七兵衛おやじは捉まえに行くんじゃない、探しに行ったんだよ」
「そうか、それにしたって、大したことはないよ」
この幻怪な少年に抑留されたために、柳田平治は殿《しんがり》となって、通ろうとしたお松の船室への行方を見失ってしまいました。
「キャビンへいらっしゃい、案内してあげます」
それを心得た清澄の茂太郎は、案内顔に先に立ったが、
「その刀、持って上げましょう」
甲板から船室へ下るには、つかえそうな長い刀。
茂太郎も、最初から、その長い刀に興味を持っておりました。
百四十五
それから、マドロスと、兵部の娘とは、体《てい》のいい監禁を施して置いて、その夜は一晩無事に寝《やす》み、翌朝、お松が柳田平治を案内して、船長室に駒井甚三郎を訪問しました。
その時も、柳田平治は、例の三尺五寸の大刀を差込んで、駒井の部屋へ行ったのですが、刀があちこちに触りそうで、一方《ひとかた》ならぬ窮屈を感じながらも、少しもこれを手ばなすことをしないのです。
駒井甚三郎の船長室へ案内されて見ると、なにもかも一種異様の感触を与えずには置きません。
その室内には、見馴れぬ舶来の機械や、図絵が満ちている。室内の調度そのものも、大きなデスクを置き、椅子を並べ、絨毯《じゅうたん》を敷いて、この日の本の国の建築の間取座敷とは、てんで感じを異にする。その大きな卓子《デスク》の前に、海図をひろげて、椅子に腰かけている当の船長そのものの風采《ふうさい》が、また、恐山から出た柳田平治にとっては、予想だもせざる異風でした。
面貌風采は、たしかに日本人に相違ない。髪も赤くはないし、眼も碧《あお》くはないのだが、その漆黒の髪は散髪で、ザンギリで、そうして着ているところのものは洋服で、穿《は》いているのはダンブクロ。柳田平治は、最初この船へ乗せられた時から、異様の情調に堪えられなかったのですが、この船長室へ入れられて、船長その人に当面に面会させられてみると、むっとしてむせ返るような気持に迫られました。
お松の紹介の言葉も、ほとんど耳に入らないでいると、先方の言葉は存外穏かな、気品のある言葉で、
「そうですか、それは御苦労でしたな」
という船長そのものの言葉が耳に入った途端に、お松が、
「駒井の殿様――いえ、船長様でいらっしゃいます」
と紹介したのですが、柳田平治は極めてブッキラボウに、
「は、そうですか、拙者、柳田平治です」
と答えたきりです。
「君は南部の恐山方面から出て来られたそうだね」
駒井甚三郎は、田山白雲からの手紙を置いて、柳田平治に問いかけると、
「は、左様であります」
と、ここでもシャチコばった返事だけです。
単にこれだけの挨拶でしたが、そこに、何かそぐわない空気をお松は早くも認めたのですが、さて、急にどう取りつくろう術《すべ》もないでいる。
駒井甚三郎は、ただ単に、初対面の書生を引見しただけの気分でしたが、柳田の方は最初からの一種異様な印象が、この時分になって、ようやく不快を萌《きざ》してきました。
駒井甚三郎がその長い刀の方へ眼をつけると、この船長、これが眼ざわりだな――と変に疑ぐり、駒井が黙っていると、気取って山出しのおれを軽蔑している――柳田の頭は、ようやく反感から僻《ひが》みの方へ傾いて、
「おれは断然、この船長は好きになれない!」
柳田の頭へ来た印象はこれです。同時に、
「田山白雲氏に対しては、一見、先生と言って尊敬するに堪えるが、この若い毛唐まがいの船長なるものは、おれの口から進んで追従《ついしょう》をいう気にはなれない」
こういったような空気が湧き出して来たのを、お松が早くも見てとりました。
百四十六
そんなような初対面の空気のままで、柳田平治は船長室を引下りました。
それから船中を往来するごとに、柳田の不快はことごとに増すばかりでした。不快といっても、特に理由があるわけではない、誰もこの男を特に冷遇したり、嘲笑したりする人なんぞは一人もあるのではないが、平治が船の中を歩くと、行き逢うほどの人が、その長い刀を見て変な目つきをする。それが八分の冷笑を含んでいるかのように、平治には受取れてならない。
単にこの長い刀を眼の敵《かたき》にするのみではない、自分の歩きっぷりがギスギスしているといって、あとで指差して笑っているような気持がする。それにこの中の水夫共までが、みんなダンブクロを穿いているのも癪《しゃく》だ。船そのものの洋式はまあやむを得ないとしても、船長をはじめ、衣裳風采まで日本人のくせに、毛唐化せねばならぬ理窟があるか。
こんな船の中に、どうして、あの豪傑肌の田山白雲先生が一緒におられるのか、それがそもそも一つの不思議でならない。
田山白雲のための船の一室におさめられた柳田平治は、そこで、彼は長い刀を枕にして、ゴロリと横になって、船室の天井に向けて太い息をふっと吹きかけ、
「いやだ、こんなところに長居をしたくない、そう思うと一刻もいやだ――本来、おれは江戸へ出て武者修行をするつもりで来たのだ、こんな毛唐まがいの船の中へ捕虜にされるつもりで来たのではない」
こう言って、奮然として起き、枕とした例の長い刀を取り上げてみたが、さすがにまた思い直さざるを得ざるところのものがある。
「第一、手形がない」
道中唯一の旅行券を渡頭《わたしば》で、いい気になって居合を抜いた瞬間に、何者にか抜き取られてしまっている。ちぇッ。
「第二、田山先生に済まない」
駈落者護衛の使命だけは無事に果したが、まだ、少なくとも
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