たちのよくまあ、こうも行儀よく仕込まれている――ということにも感心させられてしまっているようです。
「お婆さん、お給仕を致します」
「お婆さん、お出しなさいまし」
「さあ、お婆さん、わしが打ったおそばですから、どうか一ぜん召上っておくんなさいまし」
与八がそう言ってすすめる傍らには、一人のお河童《かっぱ》がお盆を持って、ちゃあんとかしこまってお給仕にかしずいているのですから、お婆さんはいたく恐縮し、
「こりゃ、まるで、大勧進で御本膳をいただくようなものだ」
そこで、お婆さんは、お椀をおしいただいて、お蕎麦の御馳走にあずかる。
内はこの通り、しとやかなものだが、外が急に物騒がしくなりました。
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ダアサイナ
ダアサイナ
ドウロクジンヘ
ダアサイナ
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一度にどっと声を揃《そろ》えて、うたい、囃《はや》して来る雑音。
万事いい心持でおそばをよばれているお婆さんも、突然なもの騒がしい声には驚かされ、暫し箸を休めて外を見やると、与八もまたそちらへ注意を向けて見ました。
九十一
やがて、下から登って来た子供の一大隊を見ると、真中に隊長が一人、大きな男根《だんこん》の形をしたこしらえ物を、紅《べに》がらの粉で真赤に染めたのを中に押立てて、その周囲に揉《も》み合い、押し合っている。
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ダアサイナ
ダアサイナ
ドウロクジンヘ
ダアサイナ
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そうして、今、揉み合い、押し合いながら、この悪女塚の教場の方へと押し上って来る。
しかし、まあ、本来が子供の遊戯に過ぎないのだから、ただ不意を打たれただけで、お婆さんも再び快く箸を執って、お蕎麦を食べつづけました。
「よく出来ましたねえ、このお蕎麦は。御遠慮なしにいただきますよ」
お婆さんは、三椀まで換えて、お蕎麦の御馳走になっているうちに、例の揉み合い、押し合いの子供たちは、もはや盛んな勢いで、与八の道場の前、悪女塚のところへ押し上り、溢《あふ》れ出して、そこで前よりはいっそう馬力をかけて、押し合い、へし合いしている。
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ダアサイナ
ダアサイナ
ドウロクジンヘ
ダアサイナ
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それは、まさしく何か風俗行事のうちの一つであって、乱暴を働きに来たものでないことはわかっているが、熱狂しきっている子供の眼中には、もはや悪女塚の庭もなければ、与八の教場もない。
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ダアサイナ
ダアサイナ
ドウロクジンヘ
ダアサイナ
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押し合い、へし合いしている、その前後左右に出没して、また別な頑童共が、割竹を持って地面《じべた》を打叩きながら、噺し立てている。それが風俗年中行事であり、子供らが習慣によって無邪気に熱狂しているのはいいとしても、心ある人に、目ざわりになるのは、その真中に押立てられたあれです。誰が、どう見ても、男根の形としか見えない大物を、紅がらでこてこてと真赤に塗り立て、それを真中に擁して一大隊の子供が、火水《ひみず》になれと揉み立てているのだから、目に立てないわけにはいかない。すべて、今までの接待に感心ずくめで通して来たお婆さんも、それを見ないわけにはいかない。与八もまたそれを見せないわけにはいかない。
ブチこわしだ! と、与八でなければ面《かお》の色を変えたでしょう。今まで子供たちの躾《しつけ》のいいことにすっかり感心させて置いたのが、これを見られてはブチ壊しになってしまう。せっかくのお客様の前へ、こういうものを担ぎ込まれたのでは、主人側としては、面から火が出るような思いをしなければならない。
それを与八は、別段、赤い面もせずに、へへらへへらと笑って見ていました。お婆さんは肝《きも》を潰《つぶ》しかけた形で、眼を円くしている。子供の一大隊は、
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ダアサイナ
ダアサイナ
ドウロクジンヘ
ダアサイナ
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ついに与八の教場の眼の前まで来て、割竹を持ったものは、早くも土間の方へなだれ込み、ますます馬力をかけて、
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ダアサイナ
ダアサイナ
ドウロクジンヘ
ダアサイナ
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九十二
この分でいると、教場内へ乱入し兼ねまじき勢いに見えましたけれど、与八は泰然自若として驚きませんでした。
お婆さんも一時|呆《あき》れ返ったが、やがて穏かに自分の巾着《きんちゃく》を取り出して、
「さあ、お婆さんがどうろくさまへ差上げるよ」
と言って、小銭をバラ蒔《ま》いてやると、子供たちはそれを拾い取ると共に、潮の引くように引きあげて、揉み合い、へし合いながら、庭を下って下へおりて行くのです。
これは、ホンのその場限りの景物でありました。
それから右のお婆さんは、与八にお礼を言って、自分は信州飯田の者である、右のような次第でお富士さんへ参詣して来たが、これから故郷の信州飯田へ帰る、お前さんもどうか、そのうち都合して、ぜひ飯田まで遊びに来て下さい、飯田へ来て松下のお千代婆さんと言えば、直ぐわかる。
待っているから、ぜひ都合して遊びにおいでなさい――と懇《ねんごろ》にすすめました。
そこで与八も、どのみち末始終は旅に出づべき運命の身だと心得ているから、いつかお婆さんの故郷、信濃の国の飯田へ行ってみようという気にだけはなりました。
いざ出立という時に、与八は、
「わしも今日は竜王まで、ちょっくら用事があるから、一緒にお送り申しましょう」
かくて与八は、またも郁太郎を背負い、お婆さんと道づれになって、ある程度までお婆さんを見送りながら、自分は自分の用足しをして帰ろうという門出です。
お婆さんは、自分のかぶっていた菅笠《すげがさ》を、与八のためにと言って残した。その笠には、富士のお山のおしるしもあれば、お婆さんの故郷、信州飯田――池田町――松下千代と書いてある。
それをお婆さんの記念《かたみ》として受け納めた与八は、別に新しい笠を換えてお婆さんに贈り、そうして二人は、この教場を立ち出でました。天気が良くて、釜無川の沿岸から八ヶ岳の連峰が行手に聳《そび》えている。与八は歩きながら、お千代婆さんに向って述懐を試みる。
「うちの大旦那様が、今、上方《かみがた》へ向けて旅をしておいでなさる、上方見物という名代《なだい》だが、本当はたった一人の娘さんのことが心配になるのでしょう。その娘さんというのは、きかない気のお嬢様で、お父さんの大旦那ももてあまして、お嬢さまのなさるように好き自由にさせてお置きなさる。こんど近江の国の胆吹山《いぶきやま》というところの下へ、そのお嬢様が広大な地面を自分でお買いなすってね、そこへ一つの国をこしらえるんだそうです、何をしでかしなさるのかわからない。こちらの大旦那という方も、実はお気の毒な方なので、この通り甲州第一等の身上でおあんなさるのに、御家族運が悪くてね、たったひとり残ったお嬢様がその通りなんですから、お大抵の心配事ではございません。上方へおいでになっても、またそのお出先で、お嬢様と衝突がなければいいと、みんなそれを心配しているんでござんすよ。それで、実はわしも、お留守居の方を番頭さんにお任せ申して、胆吹山へ行ってみようかと思っているところです。そうしたらその途中、お婆さんのところへおたずね致しましょう」
九十三
ややあって、お婆さんは急に思い出したように、
「ああ、それそれ、わたしは、すっかり忘れていた、今日は、だいに[#「だいに」に傍点]様のお墓参りをする約束であったのに」
と言って、改まって与八に問いかけたのは、
「若衆《わかいしゅ》さん、お前さん、済みませんが、ちょっと、だいに[#「だいに」に傍点]様のお墓まで案内をして下さい、頼みます」
「だいに[#「だいに」に傍点]様とおっしゃるのは?」
「だいに[#「だいに」に傍点]様――有名なお方ですよ、ここから遠くないところにお墓があるはずです、お前さん、そこへわたしをちょっと案内して下さい」
「だいに[#「だいに」に傍点]様――わしゃ、そういうお方を存じませんが」
与八は、真に当惑面で答えました。お婆さんから突然に、だいに[#「だいに」に傍点]様、だいに[#「だいに」に傍点]様と問われても、いっこう自分には心当りがないので、お婆さんだけが、ひとりのみ込みであるとは思うが、しかし、他国から来た人がこうして、だいに[#「だいに」に傍点]様、だいに[#「だいに」に傍点]様と無造作《むぞうさ》に問いかけるところを以て見れば、あまねく世間が知っている名前に相違ない。ところが与八は一向それを知らない。
人が知っていて、与八が知らないことは、だいに[#「だいに」に傍点]様に限ったことはない。現に木喰五行上人《もくじきごぎょうしょうにん》のことなども、与八はいっこう知らない間に人が知らせてくれた。自分は武蔵の国から出て来て、いま隣国の甲斐の国にいることだけは知っている。甲斐の国へ来て知っている人といえば、自分の身辺に触れて来た人のほかには、古いところで武田信玄公――そのほかには、ちょっと与八の頭では思い出せない。思い出せば水晶ぐらいのものです。
そこで、だいに[#「だいに」に傍点]様のお墓といって、お婆さんから先刻御承知のもののように尋ねられて、つかえてしまったのは是非もないので、まことに済まない面をして与八が次の如く申しわけをしました。
「わしは、この土地の生れでねえんでございますから、何も存じません、親類身よりもこの土地にはねえんですからねえ」
「いや、お前さんの親類とは言いません、だいに[#「だいに」に傍点]様をお前さんは御存じないかね、困ったものだ、では誰ぞ、その辺の人に聞いてみましょう」
田の畔《あぜ》を通る村人二三人を呼び止めて、お婆さんが同じように問いかけました。
「だいに[#「だいに」に傍点]様のお墓は、どちらですね」
これに対する返答は、ほぼ与八同様のものでありました。
いずれもお婆さんがひとり合点で、だいに[#「だいに」に傍点]様、だいに[#「だいに」に傍点]様と呼びかけるのに、問われた方は怪訝《けげん》な面をして、ぐっと返答にさし詰ってしまうのです。与八は他国者だから、それを知らないにしても、正銘の土地の者が、二人、三人、みんな当惑して、きょとんとした眼でお婆さんを見る。
ちょうど、四人目に田を起している老人をつかまえた時に、その人だけがやっと眉を開いて、
「ああ、だいに[#「だいに」に傍点]様、山県大弐様《やまがただいにさま》のお墓でごいすかい。そりゃ近いところでごいすよ、あの大きな竹藪《たけやぶ》を目あてにおいでなすって、あの藪の中にごいすよ、ちょっとわかりますめえが、崩れた塔婆があるにはありやすよ――まあ、あのでかい藪の中を探してごらんなさって」
と教えてくれたので、お婆さんは喜んでその教えられた方の大竹欒《だいちくらん》をめざして進んで行くから、与八もそれに従わないわけにはゆきません。
九十四
お婆さんが、ひとり呑込みで、だいに[#「だいに」に傍点]様、だいに[#「だいに」に傍点]様と口走っていたその人の本名は、「山県大弐」という名前であることだけはわかりました。だいに[#「だいに」に傍点]様、だいに[#「だいに」に傍点]様と言わないで、本名の山県大弐を呼びさえすれば、土地の物識《ものし》りは知っているということもわかりました。
田圃《たんぼ》の間をずんずんと進んで行くと、ほどなくその大竹藪まで来ました。別に囲いもないが、さりとて、どこに道がついているのかわからない。それをお婆さんは見つくろって、怖れ気もなく中へ入って行くのです。与八も何が何だかわからないながら、つい、お婆さんに露払いをさせてしまって、若い自分がそれに追従しなければならなくなったのは、お婆さんその人は、たずねる墓の主をよく心得ているが、自分はいっこう知らない。これほどに
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