この御殿はどうです、まあ、この空俵の上へ毛布《けっと》一枚――ずいぶん結構なベットね。一晩は辛抱したけれど、もうできない、わたしは駒井の殿様のお船の方が、黒船に乗るよりよっぽどいい、逃げ出すんじゃなかった、駒井の殿様のお船に、おとなしくしていればよかった」
「オ嬢サン、ソンナ愚痴イケマセン、少シノ辛抱デス。デハ、ワタシ、アナタノタメニ唄ヲウタッテ上ゲル、コノ手風琴デ、世界ノ国々ノ、港々ノ唄ヲウタッテアナタヲ慰メテ上ゲルデス。今晩一晩ダケデス、明日コノ川下ルト海ニ出マス、海ニ出ルトソノ黒船ガ待ッテイルデス。サ、ワタシ、オ嬢様ノタメニ、世界ノ国々ノ、港々ノ唄ヲ何デモウタッテ上ゲルデス、オ望ミナサイ、外国ノ唄オイヤナラ日本ノ唄、ワタシタイテイデキルデス、八重山、越後獅子、コンピラ船々、追分、黒髪、何デモオ望ミナサイ」
と言ってマドロスは、立って一方の隅から手風琴を提げて来ました。これは無名丸備えつけの品を、行きがけの駄賃にかっぱらって来たものでしょう。
「いや、いや、唄なんか聞きたくありません、唄どころじゃないわ」
「船カラオ茶少シ持出シテ来マシタ、オアガリナサイ」
「何も欲しくありません。ああ、いやだ、だんだん外が暗くなる。帰りましょうよ、マドロスさん、ね、お詫《わ》びをして、駒井の殿様のところまで帰りましょうよ、直ぐにね、日の暮れないうちに、さ、いま直ぐに」
「イケマセン、イケマセン、モウ少シ落着クコトヨロシイ」
「いいえ、わたし、もう思い立ったら意地も我慢もないのよ、マドロスさん、お前、戻るのがいやなら、わたしは一人で出かけます」
「イケマセン、私、一生懸命ニ止メルデス」
 だらしなかった娘が、バネのようにはね起きると、ばった[#「ばった」に傍点]が飛びついたように駈け寄って抑えたマドロスの眼つきは、今までのウスノロではなく、燃えるような執着を現わしていました。
「放して頂戴」
「イケマセン」
「馬鹿!」
「イヤ、馬鹿デナイデス、オ嬢サン、アナタ考エ無シデス」
「お前がわたしを騙《だま》したんだわ、ああ、いやな奴。誰か迎えに来て下さるといいねえ、こういう時は田山先生に限るのよ、田山先生でなければ、このウスノロをどうにもできやしない!」
と言って、娘は力を極めてマドロスを突き飛ばしました。

         十六

 突き飛ばしたつもりだけれども、相手は飛ばないのです。
「オ嬢サン、アナタ、モウ、ワタシノモノアリマス、逃ゲラレマセン」
「ばかにおしでないよ、お前さんなんて、ウスノロのくせに」
「アナタ、モウ、ワタシニ許シタデス、ワタシモウ、アナタ離サナイデス」
「しつこい奴ね」
「アナタ、ワタシノモノデス」
「あ、畜生!」
 いかに争っても、これは問題にならない、というより、もう問題は過ぎているのです。娘は全くマドロスに抱きすくめられて、身動きすることもできない。そうすると、急に娘の言葉が甘ったるくなって、
「ねえ、マドロスさん」
「エ」
「そんなに苛《いじ》めなくてもいいことよ」
「ワタシ、チットモ、アナタイジメルコトアリマセン、アナタ可愛クテタマラナイデス」
「可愛がって頂戴。可愛がって下さるのはいいけれど、それほど可愛いものなら、わたしを大切にして頂戴、ね、ね」
「大切ニシテ上ゲルデストモ、ワタシ、命ガケデアナタヲ可愛ガルヨロシイ」
「では、わたしも、もう我儘《わがまま》を言わないから、無理なことしないで頂戴、ね」
「無理ナコトシタリ、言ッタリ、ソリャ、オジョサン、アナタノコトデアルデス」
「仲直りしましょうよ」
「ワタシ、仲直リスルホド、仲悪クアリマセン」
「ですけれど、マドロスさん、今晩はまた寒いのね、この毛布一枚じゃ、どうにもなりゃしない」
「火ヲ焚クデス、夜通シ火ヲ焚イテ暖メテ上ゲルデス」
「では、焚火をして頂戴」
「ヨロシイデス」
 マドロスは、唯々《いい》として命令に服従し、今夜の寒気を防ぐべく火を焚く前に、臨時のストーブの築造にかからねばならないことを知りました。しかし、この女を暖めるためには、そのくらいの労力や才覚は何でもない、つとめて保温を完全にして、今夜一晩の、この娘の歓心を買うことにつとめなければならない。それには、どうしても、いま現に利用しつつあるところのこの半壊の囲炉裡《いろり》を修理して、これに格子か、或いは櫓《やぐら》を載せて、そうして炬燵《こたつ》の形式にすることが最も簡単で、そうして効果のあることだと思い当ったらしく、無論もうその時はぐんにゃりとなった、抱きすくめた女の身体を放してやり、それから炉べりに向って新しい煖炉の仕かけのために、一心に工夫を凝《こ》らしはじめました。
 逃げるなら、この隙《すき》に――といったところで、どうにもなるものではありません。叫べば口を抑えられてしまい、動
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