だけでできるものではない、行路の難というものは、山にあらず、川にあらず、ということを、一席聴かせてやることが、この際、後進に対する重大な教育だと感じないわけにはゆかないのです。
 そこで田山白雲が、この青年をとらえて、旅というものの教訓を始めようとする時に、この茶屋の前がまたにわかに物騒がしくなりました。
 それは、往還の要衝たる渡頭のことですから、相当|賑《にぎ》やかなのは当然のことですが、賑やかと物騒とは調子が違います。只ならぬ人間の犇《ひし》めきが、今度はこちらの岸から起り始めたかのようです。白雲が、話題の鼻を折られていると、その前へ繰込んで来たのは、たしかに物騒な一行で、抜身の槍、突棒《つくぼう》、刺叉《さすまた》というようなものを押立てた同勢が、その中へ高手小手に縛《いまし》めた一人の者を取押えながら、引き立てて来たのであります。
 二人は、押黙って、その光景を見ないわけにはゆきませんでした。
 まず、真中に取りおさえられ、引き立てられている当人を見ると、それは、黒の羽二重《はぶたえ》の紋附を着て、髪は五分|月代《さかやき》程度に生えて、色の白い、中肉中背の二十歳《はたち》を幾つも出まいと思われる美男でした。それが着物は引裂け、朱鞘《しゅざや》の大小をだらしなく差したまま、顔面にも、身体にも、多少の負傷をしながら、高手小手にいましめられて、引き立てられて来るのです。
 そうして、この茶屋の前を素通りしてグングンと引き立てられ、渡頭の方へと引かれて行くのは、舟で向う岸へ運ばれて行くものと見える。
 思いがけない兇状持ち、それを無言で見送った途端、田山白雲の頭に閃《ひらめ》いたのは、さいぜんの乗合者の話――南部の家老の娘をそそのかして連れ出したという、美男の、色魔の、若侍の物語でありました。今ああして縛られて行ったのが、どうしてもその当人と思われてならぬ。あれが捕われたのだ、それがもはや疑う余地のないほどピタリと白雲の頭に来ました。

         十三

 上来の事件とほぼ時間を同じうして、距離に於ては向う岸の渡頭から南へ一里余を隔てた、追波川《おっぱがわ》が湾入して、大きな沼池をなしているところの荒れ果てた石小屋の中の、一方へ空俵を重ねて、その上へ毛布を敷きこんで、寝そべっている若い女の子がありました。
 島田に結った髪がほつれてはいるけれども、花模様の着物の着こなしも、朱珍の帯のしめっぷりもきちんとはしている。だがまた、いやに艶めかしいところもあって、寝そべって、細くて白い、そのくせ痩《や》せてはいないで、少し蒼味を持った肉附のいい両腕を、双方から、ぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]あたりへあてがって、そうして甘えるような、また自暴《やけ》のような声で、
「つまんない」
と言いました。
 そうすると、つい、その戸じまり一重《ひとえ》次になった臨時お台所で、
「ツマンナイコト無イデス」
と言う、がんまり[#「がんまり」に傍点]した、その上、多分の寸伸びを持った応対。
 見ると、そこに、不器用な手つきで、焜炉《こんろ》を煽《あお》って何物をか煎じつつあるその男は、これはずいぶん変っていました。まず眼の色、毛の色が変っているのみか、その体格が図抜けて大きいのが何より先に眼につきます。これは、月ノ浦に泊っている駒井甚三郎の無名丸から脱走して来たマドロスに相違ありません。してみると、無論、この一方に寝そべって、「つまんない」と投げ出した、妙にじだらくな若い女の子は、右のマドロスにそそのかされて、共に駒井甚三郎の無名丸を脱走して来た兵部の娘に相違ないでしょう。いや、マドロスに誘拐されたのか、マドロスをそそのかしたのか、そのことはよくわからないが、こうして一方が不貞腐《ふてくさ》れの体《てい》で寝そべっているのに、一方が庖厨《ほうちゅう》にいて神妙に勝手方をつとめているところを見れば――位取りの差はおのずから明らかであって、つまり、女が天下で、男が従なのです。女が比較的にヒリリとして、男が多分に甘い。
「ああ、つまんない、つまんない」
 女の方がいよいよ自暴《やけ》になって、ほつれた髪の毛を動かすと、大男が、
「アア、ツマンナイコト、チットモナイデス」
「マドロスさん、お前の言ったことはみんな出鱈目《でたらめ》ね」
「デタラメデナイデス、本当デス」
「一つとして本当のことは無いじゃないか、この海を一つ乗りきりさえすれば、外には直《じ》きに大きな黒船が待っていて、わたしたちが着けば、その大きな黒船の上から梯子《はしご》を投げかけてくれる、それに捉まって上ってしまいさえすれば、もう占めたもので、あの黒船の中は、またとても外から見たよりも一層大きくて、美しくて、その中にはキャビンというものがあって、室内いっぱいの大きな鏡があって
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