と、あちらから乗込んで来た一行も、何か事の仔細を、新たに向うへ渡ろうとする旅客に話しかけようとする気分が動いていたからで、そういうことに頓着ない老人子供などは、先へ乗込んだけれども、なかには、まだ一舟遅らせても新来の客と話し込んでみたいという者もありました。それがカチ合って、茶店の中での問答に興が乗ってきました。
 今度は、物騒な川破り男もいないし、役人も行ってしまったから、心置きなく乗合衆の世間話に興が湧き上って来る。
 田山白雲としても、この際、ちょっと立てなくなりました。只今さっさと風を切って立去ったところの、あの長剣短身の男の行方もどうやら気になる。そうかといって、この場へ齎《もたら》されて花が咲こうとしている向う河岸《がし》から新来の旅客の世間話が、どうしてもこの際、聞きのがせないものの一つとなっているようだ。
「えらいことじゃ、南部の御家老様のお嬢様をそそのかして、連れて逃げた奴がござる、その追手じゃな――それと前後してからに、南部の御城下で、お歴々の首を斬って立退いた奴があるとのことじゃ、それでお目つけがああしてお調べにおいでじゃわい」
と、向う岸から来た乗客のうちの年配なのが、土間の炉端の床几《しょうぎ》へ腰をかける匆々《そうそう》、こう口走ったのを、他の人数と同様、白雲も、更にその詳しい説明をここで聞いて置きたい気持になりました。
 よし、事のついでだ、ここで一番、川魚でもあぶらせて、腹をこしらえてやろう。こっちもこれから前途相当に多事である。なんにしても腹をこしらえてのことだ。
 白雲は、どっこいしょと腰を据え直し、持参の割籠《わりご》を開きにかかりました。

         十

 割籠を開いて、川魚をあぶらせ、腹をこしらえながら田山白雲は、向う岸から新来の乗合客のゴシップを聞いていると、最初に齎されたところのもの以上には詳しいことを知ることはできなかったけれども、要するに、南部の家老の非常に美しいので有名なお嬢様を、そそのかして連れ出した悪い若侍がある。悪い奴だけれども美しい男で、それに腕が利《き》いているのだということ。もう一つ別に盛岡の城下で、身分の軽からぬものを斬って立退いたものがある、その探索をも兼ねてあの役人が出張したということ。
 右のうち斬捨てられた軽からぬ身分の者というのが、どのくらいの程度のものであるかよくわからないが、どうも前後の話を取合わせると、右の悪い若侍がそそのかして連れ出した娘の父であるという家老ではないか、家老であるところの父を斬って、その子であるところのお嬢様というのをそそのかして連れ出したのではないか、というように想像されてならないが、話の筋道は全く事件と性質を異にしたものになっている。
 事件と性質とを異にしていても、いなくても、前者の事件には、今の長剣短身の男は絶対にかかわりがないと見なければならない。美しいお嬢様なり、姫君なりを連れての道行《みちゆき》ではなかったし、あの男自身も、美男で色悪《いろあく》な若侍とは言えまい。
 だが――第二の事件、別に盛岡の城下で、身分の軽からぬものを斬って捨て、行方をくらましたというのへ当てはめてみると、あの男に相当ピタリと来るものがないとは言えないのだ。あの男ならば、意趣や遺恨は別として、単に出逢頭《であいがしら》の話の行違いだけでも、ずいぶん抜く手を見せ兼ねない。嫌疑としても容疑としても、その点は相当のものなのだ。刀の調べられっぷりでも、あれでは結局役人をばかにしたようなものだ。ばかにされたようなものだと知りつつ役人が黙過したのは、二本目を抜かせまいがためだ。二本目を抜かせると、何をやり出すか知れない!
 その危険性は白雲もまた、充分に見て取っているのだ。ああいう際には、暫く不問に附してみることも、役人として卑怯なりとは言えない。だが、あの当座だけ大目に見られた御当人が、これから先、あの調子で、江戸まで往来が為《な》され得ると考えたら大間違い。恐山から来たと言ったが、本当の山出しで、まだ世間を知らない。立ちどころに行詰まって、立腹《たちばら》でも切らなければ納まらなくなるのが眼に見えるようだと、白雲はそれを思いやり、笑止千万に感じながら、でも、なかなか痛快な若者ではある、自分が帰りがけでもあれば、同行して面倒を見てやってもいいが、今はそうしてもおられない。
 いや、飯も食い終った、乗合も散った、さあ出かけよう、と田山白雲が若干の茶代を置いて、この渡頭の茶店を立ち出でると、出逢頭に、のこのことこの場へやって来たものがありました。
 見ると、それが今の思出し男、恐山から来た柳田平治に相違ありませんから、白雲も思わず、たじたじとしたことです。何をどうしたのか、先刻あれほど肩で風を切って出かけて行った男が、なんとなく浮かぬ面《かお》
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