耳をそばだてざるを得ません。
前にいう通り、もう立派な深夜です。この二人のほかに、このだだっ広い屋敷に起きているものはないはずです。二人もその心持で、あたりの空気を動揺させない程度で会話をしていたのですが、この二人のほかに、もう一つ忍び足のあることが、たしかに今のミシという音で気取《けど》られました。
そこで、お銀様ほどの人が思わず耳を聳《そはだ》てていると、先方も、もう気取られたかと観念したのか、もうこの辺で術を破ってやろうとでも覚悟したのか、ミシ、ミシ、ミシと、本格的に廊下を踏んで、早くもお銀様のいるもう一つの部屋まで来てしまって、襖越しに、
「今晩は、もうお目ざめでいらっしゃいますか」
極めて低い猫撫声です。そして男の声なのです。
「誰ですか」
とお銀様が屹《きっ》と向き直りました。
「へ、へ、つい、その、ちょっと失礼をいたしました」
「誰ですか、あなたは。何のためにこんなところへ来たのですか」
「へ、へ、ついその、何しましたもんでございますから」
「わかりました、お前はここへ盗賊に来たのですね」
「いや、そういうわけではございませんが、つい、その、へ、へ」
「お帰りなさい、お前たちにつけ覘《ねら》われるような、わたしたちではありません」
お銀様は、いつもの見識で手強く叱りましたが、相手もまたそれで退くくらいなら、ここまでは出て来ません。
「そうおっしゃらずに、ちょいとお目にかかって申し上げてえことがございまして――ここをあけましてもよろしうございましょうか、御免こうむりまして」
いよいよ人を食った猫撫声で、こんなことをたらたら言いながら、早くもスルスルと襖へ手をかけて、二三寸あけてしまいました。
お銀様はまたその方を睨めたけれども、少しも動揺しません。
「没義道《もぎどう》なことをすると、お前のためになりませんよ」
「へ、へ、実はな、お嬢様――」
お嬢様と言ったからには、相当にこちらの人柄に理解があるに相違ない。盗人《ぬすっと》に来たということは明らかだが、それにしても、このいけ[#「いけ」に傍点]図々しい猫撫声を聞いていると、ただ物質が欲しくて忍び込んだものとのみは思われない。
もはや、こっちを呑んでかかって、次第によっては説教の一つも試みようというはらがあって来た奴に相違ない。それだけに油断のならない相手であるとは、お銀様も気がついたには相違ないが、お銀様にもまたたのむところがあると見えて、あえて驚かないのは前と同じです。ところで頬かむりが、
「へ、へ、お嬢様、わっしはこう見えても盗人に来たんじゃごわせん、お嬢様をお見かけ申して少々|合力《ごうりき》にあずかりてえとこう思いましてな――それをひとつ聞いていただかなけりゃなりません」
と、いよいよ猫撫声で、膝小僧をじりじり[#「じりじり」に傍点]と進めて、乙にからんで来るのです。
七十五
「わたしは、お前のような人に頼まれて上げる義理はない、何か用があるなら、夜が明けてから出直しておいでなさい」
とお銀様は、あたりまえの言い分でたしなめますと、
「そうおっしゃるものじゃございませんよ、お嬢様――」
松助のやる蝙蝠安《こうもりやす》のような、変に気取った声色《こわいろ》をして、襖をもう二三寸あけました。そうすると、お銀様の部屋の行燈《あんどん》の光で、忍んで来た奴の正面半身が見えました。
着物は尋常の二子《ふたこ》か唐桟《とうざん》といったようなのを着け、芥子玉《けしだま》しぼりの頬かむりで隠した面《かお》をこちらに突き出している。
以前に覆面のことがあったから、ここで、頬かむりに就いても一応の知識がなければならないことになる。覆面と言い、頭巾というものは、特に一定の型があって、一応は縫針の手を通さなければならないように出来ているのであるが、頬かむりは違います。
頬かむりというものは、通則として手拭を使用することを以て、今も昔も変らないことになっている。手拭というものは本来、頭巾の代用のために、覆面の利用のために出来ているものではない。木綿を三尺に切って、相当の形に染め上げ、その名分よりすれば手を拭うことにあるのですが、その職分は決して、手だけに専門なるものではない。面も拭えば、足も拭うことがある。時としては風呂敷の代用もつとめれば、繃帯の使命を果すこともある。
演劇で、これをカセに使って見物を泣かせることもある。仁義のやからは、これが一筋ありさえすれば、日本国中を西行《さいぎょう》して歩くこともできる。どうかすると、このものを綴り合わせて浴衣《ゆかた》として着用し、街道へ押出すものさえあるのです。
その効用の一つとして、これを即座の覆面に利用して、称して頬かむりという。本格の覆面にもかぶりこなしの巧拙がある以上は、この
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