ないのじゃない、あなたが衰えたのですよ」
「そうかなあ」
「でも、考えてごらんなさい、あなた、甲府の城下でも、江戸の真中ででも、いつ、いかなる場合に於ても、犬に吠えられたことのないというのが、あなたの御自慢ではなかったのですか」
「そう言えばそうだ」
「ところが、この長浜へ来ては、ああして昨晩も、また今晩も、犬につけつ廻しつされていらっしゃる」
と、二人の深夜の問答は、専《もっぱ》ら犬のことで持切りなのであります。
「そう言われれば、いよいよそうだ、拙者は今日まで、夜な夜な独《ひと》り歩きをしても、決して犬に吠えられなかった、犬に吠えられないのみか、時としては犬から慕い寄られたことさえある、それが、この長浜というところへ来てみると、最初の晩から犬の災難だ、それが癖になって、犬がついて廻るようだ、今晩もまたこの一念が出ると、不思議に近いところで犬が吠える――この一念が納まると、犬もまた吠え止む――こうして犬に吠えられたり、送られたり、とうとう獲物にはぐれて、ここまで犬に送りつけられてしまった」
「よくわかりましたよ、わたしがこうして耳をすましておりますと、あなたが、町のどの方面から、どの方面をとってお帰りになるかということが、筋を引くようにわかりました」
「犬の鳴き声によってだね」
「そうでございます」
「さあ、そうなってみると、もうこの長浜というところで夜歩きはできなくなるのだな、少なくとも、拙者というものは、夜な夜な長浜の町をさまようてみたところで、何の収穫もないことになるのだ」
「まあ、そんなものでございますね、お出ましになって出られないこともございますまいが、結局、犬に吠えられに出て、犬に送られてお帰りになるまでのことでございましょう」
二人の会話は暫く途切れておりましたが、お銀様はすでに解きかけた覆面を取去ろうともせず、そのまま机にもたれて寝に就こうとはしないのです。
隣室も、なお一層静かでしたが、暫くして、また刀架へ触るような物音がしました。
こちらも寝ようとはしないが、あちらもそのまま寝床へもぐり込んだ気色《けしき》もない。こちらのは、ただ静かにして机にもたれているだけですが、あちらのは、いったん刀をまた取卸したような物の気配です。いったん刀架にやすませた刀を、また揺り起したとなれば、これに向って、また相当の使命を托すると見なければならぬ。
転任か、或いは出動か。
七十二
今まではお銀様の居間の方の場合からのみ写しましたが、今度は改めて、隣室の方へ舞台を半ば廻してみましょう。
その室もやっぱり、だだっ広い、古びきった宿屋というよりは、古いも古い、徳川期を越した太閤の長浜時代の陣屋とか、加藤、福島の邸あとの広間とかいったような大まかな一室なのです。
そこの一隅に、もはや寝床がのべてあって、六枚折りの屏風《びょうぶ》が立てかけてある。こちらにもお銀様のと同じような火鉢があって、炭取も備わっている。机は隅の方に押片附けられて、座蒲団《ざぶとん》が真中のところに敷かれているが、その火鉢と座蒲団の程よきところに、丈の高い角行燈が一つ聳《そび》えている――という道具立てなのですが、これが、はっきり見えるというわけではありません。その行燈には灯《ひ》が入っていないのみならず、お銀様との隔ての襖もあいていないから、光というものは、ほとんどこの部屋に本来備わっていないところへ、外界からも漏れて来ないから真暗なのです。
その真暗なところへ、さいぜんから音もなく、真黒いいでたちの人が、風のようにひっそりと入って来て、火も掻《か》き起さなければ、燈火《あかり》もつけないで、隣室との応対をつづけているのですから、やっぱり光景そのものからいうと、黒漆崑崙夜裡《こくしつこんろんやり》に走るとか、わだかまるとか言うべきもので、何にもないところに声だけがあるようなものですが、小説の描写のためから言えば、はっきりと、それを写し出さないわけにはゆかぬ。
今、この黒漆の室にいる黒衣の者の姿は、昨晩、大通寺の玄関の松に近く、幼な児の捨てられているところで、鬼女を引きつけたところの第二の悪魔――第三の悪魔としての餓えたる犬と戦ったあれです。
大小二つの刀は、手を差延べれば届く床の間の刀架にかけて置いて、自分は、火鉢を前に、行燈を左にして坐ったままで、さきほどからの会話をつづけているのでしたが、この会話の間も、やっぱり覆面を外すことはしませんでした。
二つの室に相隣りして、無作法な男女が二人控えている。姿形こそはいずれも崩れてはいない。無作法とも、だらしがないとも言えないけれども、室内にあって、この夜中にまでも覆面を取らないですまし込んで会話をつづけている点だけは両々相譲らないのです。
一口に覆面というけれども、そ
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