その大床の床板の上へ持って来て、三人がおのおの胸いっぱいに抱えていた物を置き放してしまいました。その抱えて来たものは、提灯《ちょうちん》の古いのを重ねて括《くく》ったのや、さしに刺した銭を幾貫文となく、つまり、今までの鼠の巣の上へ、また鼠の巣の材料を加え、お銀様の神経を不快ならしめている上へ、また不快を積むのでありました。さりとてこの人たちは、みんな善良な、質朴な人たちで、画を冒涜《ぼうとく》せんがために、お銀様をイヤがらせんがために、そうしているのではない、画を認識しないのだ。画を認識する力が無いというよりも、床の間と物置との差別がつき兼ねているのだ。
 ところで、なおあとからあとから鼠の巣が持来たされ、ついに、牡丹と唐獅子の一角を埋めようとするに至ったから、お銀様が、つい、こらえられなくなりました。

         六十七

 お銀様が堪《こら》えられなくなったといったところで、あえて宇治山田の米友のように直接行動に出でられるはずもなし、また、ここは自分の王国ではないから、命令だけを以てしても行われようはずはなし、この人たちに事を分けて言い聞かしてみようというほどの気にもなれず、そこで、堪えられなくなったお銀様の行動というものは、直ちにその場を立去ることでありました。
 まだ見ようと思うところ、見残したところも多少あるでしょうが、これでお銀様は断念して、もと来た玄関の方から引返してしまいました。引返して後、この寺を出て宿へは帰らないで、湖岸の方へと向って行きました。その時はもう、連れて来た宿の少女もかえしてしまい、全く単身でありましたが、湖岸へ出て、しばし琵琶の湖水を眺めている姿を見かけましたけれども、それから後は、どこをどうしたか、お銀様の身が長浜の町の中へと呑まれてしまいました。
 しかし、その夜になると、いつ帰ったともなく、お銀様は宿へ帰って納っておりました。
 お銀様の宿というのは「浜屋」です。浜屋というのは、一見|旅籠屋《はたごや》とは見えない、古いだだっ広い、由緒の幾通りもありそうな構えで、大通寺の建築が豊太閤の桃山城中の殿舎であったとすれば、この宿屋は、たしかに秀吉長浜時代の加藤虎之助とか、福島市松とかいった人たちの邸をそのまま残したものであろうかと思われるくらいですから、間取りなども、宿屋というよりは陣屋、陣屋というよりは城内の大広間といったような感じのするところで、そのだだっ広い古びた一間にお銀様は、これも古風な丸行燈《まるあんどん》の下で、机に向ってしょんぼりと物を書いているところです。室内にあって、机に向って物を書きながらも、この人は覆面をとらないこと、昼の時と同じことでした。
 夜はもう静かなのです。長浜は静かな町ではあるけれど、時もかなり更けている。深夜というほどではないが、夕餉《ゆうげ》はとうに終って、夜具もなかなか派手やかなのが、いつでも寝《やす》めるように展《の》べられている。
 そこで、お銀様は筆を執って、巻紙をのべて、すらすらと書き出しました。手紙を書き出しているのです――その文言を調べてみると――お銀様は行成《こうぜい》を学んで手をよく書き、文章も格に入っているのだが、便宜上、その文言を現代的に読んで行ってみると、
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「今日は、長浜の大通寺へ行ってまいりました。なるほど、お話の通り、想像以上に立派でもあり、由緒のある建築でもございました。
しかし、これだけの建築にしましては、守るものが少々認識不足に過ぎるように感じました。勿体《もったい》ぶらないでいいようなものですけれども、もう少し大事に心得ていてもらってもいいと思いました。
ことに問題のあの『山楽《さんらく》』でございました。三間の大床いっぱいに、滝と、牡丹と、唐獅子とを描きました、豪壮にして繊麗の趣ある筆格は、まさしく山楽に相違ないと、わたくしは一見して魂を飛ばせるほどでございましたが、二度三度見ても飽くことを知らぬ思いを致しましたが、肝腎《かんじん》の寺を預る人たちは、山楽を山楽として認識しておりません、これが残念です。残念だけならいいけれども……」
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 お銀様は昼の見学の時の怨《うら》みを今、筆にうつしているところでありました。

         六十八

 お銀様は、さらさらと筆の歩みを続けて申します――
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「あの豪壮な山楽の壁画の前が、鼠の巣となろうとしています。なにも寺の人は故意にしているわけではありませんけれど、世の常の人が偉人に親炙《しんしゃ》していると、つい狎《な》れてその偉大を感じないといったように、これだけの山楽を傍に置きながら、山楽とも思わないで、心なき寺の人が、その床を物置に使っているではありませんか。
このぶんで行きますと、早晩あの
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