以上の音は語を成さない。
 頭からか、尻尾からか、それは知らないが、ボリボリと食われているのだ。
「ひーひーひー」
 あ、あ、あ、というのが、ひー、ひー、ひーと聞える。
 必死に悶《もだ》えている。必死に反抗している。しかし、それは何でもない、蛙も蛇に呑まれる前には相当反抗する。ただ絶叫と悲鳴との限りを尽して抵抗するのと、声をあげる機関を妨げられての上で暴行を加えられるのとの相違があるまでで、その極力必死の抵抗だけは同じことなのですが、
「く、くるしい! うーん」
 やっと、これだけの声が女の口から出ました。あとは烈しいうめきです。
 抉《えぐ》られている――それは胸か、腹か、腸《はらわた》か知らないが、両刃《もろは》の剣をもって抉られた瞬間でなければ出ない声だと思われる、大地を動かす呻《うめ》きでした。
「く!」
 断末魔の身動きをするらしい。
 ずっと昔のこと、甲州の八幡村で、新作さんという若衆《わかいしゅ》の許婚《いいなずけ》の娘が、水車小屋から帰る時、かような苦叫をあげたことがある――最近には……

         六十

「玄関の松」の裏で、女の虫の息が糸を引いて全く微かに消え去った時分に、例のおさな児の傍に、全く別の人影がありました。あくまでおとなしい児はおとなしい児で、あのとき泣き出したが、ここでまた泣きやんでいました。
 その籠の傍に、今度は全く別な人影が一つ立っている。それは、以前の白衣の女とは似ても似つかぬ、黒衣覆面にして、両刀を帯び、病めるものの如き痩身《そうしん》の姿でありました。
 こうなってみると、この覆面の姿も、断じてお花さん狐の変化《メーキャップ》の一つではない。深夜に餌食《えじき》をあさる鬼の一種には相違ない。
 しかし、鬼だの、変化《へんげ》だのといっても、今時は相当に気が利《き》いていなければならぬ。俗に気の利いたお化けの引込む時分という諺《ことわざ》がある。引込みの大事なのは、花道の弁慶と、内閣の更迭《こうてつ》のみではない。人間の世には戸籍のない化け物でさえも、引込みの時間が肝腎である。さいぜんの物凄い鬼女なども、いわば引込みの時を失ったばっかりに、食うべきものがうまうまと食われてしまった?
 引込みを上手につけるということは、一面に於て自己の分を知るということであります。引込みのつかないということはおよそ醜態の極でありますが、分を知ることの聡明な人に限って、この醜態から手際よく免れる。
 そこで、夜は悪魔の領土であり、昼は人間の時間である。
 悪魔にも生存の権利がありとすれば、それは夜間に限ってのみ、食を漁るの時間を与えられる。
 そこで気の利いたお化けは――お化けというものを仮りに悪魔の親類とみなして――己《おの》れの領土と時間のあまり切迫しない間に、手際よく後方機動の実をあげなければならない。
 この場では、一つの悪魔は木の上で藁《わら》の人形を虐殺して、その残忍性と復讐性とを満喫したけれど、引込みが甚だまずかったために、次に現われた悪魔のために食われてしまった。さてその次に現われた悪魔といえども、悪魔である限り、その領分の分界を知らなければなるまい。
 そうこうしているうちに、東の方が白んできて、そこで旗を巻くのではもう遅い。
 果してそこへ第三の悪魔が現われました。第三の悪魔が、第三の食物を求むるために現われました。
 第三の悪魔というのは何ものにして、その求むるところの食というのは何物ぞ?
 あらかじめここに一応、時と食との解釈をして置かなければならぬ。
 仏教に於ては、正午前だけが時であって、午後は時に非《あら》ず。持戒の僧は午時に於てだけに食事をする。午時を過ぎては「過中不飲漿」である。もし正午十二時を過ぎての非時に於て食事を許さば、貪心《たんしん》たちまち生じて善法を修《しゅ》するを妨ぐる――仏は仏慧菩薩《ぶってぼさつ》のために四食《しじき》の時を説いて、朝の天食、午時の法食とし、そうして畜生のための午後食、鬼類のための夜食――とこうなっている。
 そこで、夜は鬼が出て存分に夜食を貪《むさぼ》るという段取りになる。鬼はすなわち悪魔のうちの面利《かおきき》である。
 そこで、今や第三の悪魔が、第三の夜食を求めに来た。その現物は何物ぞというに、それは餓えたる犬でありました。
 犬というものは、通常、善良なる畜類であって、決して悪魔の眷族《けんぞく》とはいえないが、ただその餓えたる時のみは正真の悪魔です。

         六十一

 食に飽かしむれば、善良なる有用動物であり、食に餓《う》やせば、怖るべき悪魔であることの可能性は、犬にのみ限ったものではありません。陳斉《ちんせい》の野にいる人でない限り、おおかたの人は餓えしむれば、相当の悪魔となり得る可能性を持っている。
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