が呼びさまされました。誰だっけな、芭蕉でなし、鬼貫《おにつら》でなし、也有《やゆう》でもなし……
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置くは露
誰を食はうと鳴く烏
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伊太夫が、しきりにその句の主を探し出そうと試みていると、天井の上から非常に気味の悪い鳴き声をして、髑髏をめがけてパサと飛び下りて来たものがあります。これが一羽の烏です。
「叱《し》ッ」
と伊太夫が叱ったものですから、烏もさすがに人間を憚《はばか》って、髑髏の上へじかに飛び下りることはやめましたけれども、少しあちらにうずくまって、その貪婪《どんらん》な眼をかがやかして、こちらを覘《ねら》っている体《てい》が、憎いものだと思わずにはいられません。
まさしくこいつは、この髑髏《どくろ》を食いに来たのだ、こうなってみると、そうはさせないという気になって、こいつを勦滅的《そうめつてき》に追い払わなければならぬ、得物《えもの》は――と伊太夫もあたりを見廻したけれども、手ごろの何物もありません。ただ、枕許に置いた道中差――これは少々大人げないと思ったところ、幸いに畳の上に掛物竿がありましたから、これを取り上げて、烏を追い飛ばそうとしました。
ところが、この烏め、こちらに征服意識があると見ると、憎さも憎い、人間に向って、一層の反抗意志を示して来て、その貪婪《どんらん》な眼と、鋭角な嘴《くちばし》をつき出し、隙《すき》をねらって飛びかかろうとする。髑髏をめがけてではなく、伊太夫を当の敵として刃向って来ようとするのが憎い。
四十六
伊太夫が見つめると、こいつは「定九郎鴉《さだくろうがらす》」だなと思いました。定九郎鴉という鴉があるかないか知れないが、まさに烏の中の無頼漢だ。頭を菊いただきのように、ひら毛を立てて隙をねらう、あの目つき、物ごしを見るがいい。
掛物竿ではっしと打つと、それをかいくぐった定九郎鴉は伊太夫に飛びかかるかと思うと、そうではなく、伊太夫の袖の下をくぐって、飛びかかったのは、古代切に包んだ上代瓦の箱物でありました。その結び目へ鋭い嘴をひっかけると、その包みを啣《くわ》えて引摺り、ぱっと飛び退きました。
「こいつ」
伊太夫が、またも掛物竿を取り直す隙に、早くも定九郎鴉めは、どこをどう逃げたか、全くこの座敷から姿を消してしまうと、伊太夫がホッと息をつき、
「うーん」
とうなされただけのものです。しかし、暫くすると、本当に眼がさめました。
眼がさめたと思うと、外で鳥のはばたきを聞きましたが、それは烏ではない、鶏であることがよくわかり、同時にその鶏が声高く時をつくるのを聞きました。
鶏が鳴いたな、何番鶏か知らん、こちらは眼がさめたけれども、夢を見すぎたせいか、どうも寝足りないような気がしてならぬ。と、伊太夫が床の中でうつらうつらしていると、裏口で人の声がする。これはまぼろしの人の声ではない、現実生活の声だ。現実生活の声も、旅籠屋商売《はたごやしょうばい》などは、現実が未明から夜更けまで続く。旅にいて朝呼びさまされる時に、人は人生というものに急《せ》き立てられる思いがしないではない。
だが、この早朝――というよりは未明、いくら人を泊め、人を起して立たせるのが商売だと言っても、少し勉強が過ぎるようだ。これほどまでに早朝、これほどまでに慌《あわただ》しい働きぶりをしなければ立行かないというほどに、競争の烈しい土地とも思われないし、またそういうふうに要求するほどの団体客も見えてはいないはず。
少々騒々しいなと思っている寝耳へ、急に襖《ふすま》を開いておとなうものがありました。
「お休み中を恐れ入りますが、少々お伺いいたしとうございます、モシ、何かお失くなりものはございますまいか、念のため、お伺いいたしとうございます、手前共の不注意でございまして、昨晩、湯殿の戸締りが出来ておりませんものでしたから、そこから、どうも忍び込んだ模様でございまして」
その声は、昨晩寝入りばなに、箱入りの包みを持って来た主人の声に相違ないから、伊太夫がはっと思うと同時に、気のついたのは、昨晩、この人が持って来て枕許へ置いて行った古代瓦の袋入りの箱が、いつか姿を消して見えないことであります。
「あ、やられた、たしかにあの定九郎鴉に」
この瞬間、伊太夫の眼にうつって来たのは、人間としての盗賊でなく、烏としての、憎い奴の形でありました。
では髑髏《どくろ》は――と見ると、髑髏は宵のままで更に異状はなく、三藐院《さんみゃくいん》はと見れば、これも更に微動だもせず、文字を再び読み解いてみると、「置くは露」といったような筆画《ひっかく》は一つもなくて、筆跡はまさしく三藐院の筆ですが、歌は、
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あしひきの山鳥の尾のしたり尾の
なかなかし
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