してある、別に間道はあるにはあるが、夜分の追手にわかりっこはない、と安心しきって思うさま発展しているところへ、不意に背後から戸を叩くもの、それは気配によって見ても、まさしく人間に相違ないから、面の色を変えて手風琴を抛《ほう》り出したマドロスが、
「誰デス」
二十八
その時、戸を押破って猛然と飛び込んで来たのは、田山白雲でありました。
「ウワア、タヤマ先生」
マドロスが狼狽して、逃げ出そうとするのを、白雲は忽《たちま》ち取って押えてしまいました。
「ウスノロ!」
田山白雲が取って押えると、柳田が横の方から手伝いをして、忽ちマドロスを縛り上げてしまいました。
本来、このマドロスは大兵《だいひょう》でもあり、力も優れていて、拳闘の手も相当に心得ている奴なのでしたけれども、白雲に対してはどうも苦手なのです。安房《あわ》の国の洲崎《すのさき》で、駒井の番所へ闖入《ちんにゅう》し、金椎《キンツイ》の料理を食い散らしてから、衣食が足《た》って礼節を戸棚の隅から発見すると、性の本能が横溢し、その狼藉《ろうぜき》の鼻を田山白雲に取っつかまって腰投げを食《くら》い、完全に抑え込まれてから、銚子の黒灰の素人相撲《しろうとずもう》では連戦連勝を、またこの白雲の助言によって土をつけられてしまった。
他の何者に対しても、かなりの横着と粘液性を発揮するのですが、ひとり白雲に遭うてはすくんでしまう。
それに今日は、柳田という、超誂向きの助手があってすることだから、マドロスは身動きもできないし、グウの音も出ない目に逢って、たちまちそこへ縛りつけられると共に、みえも、飾りも、全く手放しで号泣をはじめました。そうした時に、意外にも、その間へ押隔たったのは兵部の娘でありました。
「田山先生、あんまり手荒いことはしないで頂戴ね」
「うむ、萌《もゆる》さん――君もいったい心がけがよくない」
と白雲は、押隔たる娘の面《かお》を浅ましげにながめて、たしなめると、
「マドロスさん、そんなに悪い人じゃありません、手荒いことしないでね」
「君を掠奪して、こんなところへ連れ込んだ不埒千万《ふらちせんばん》な奴じゃないか」
「いいえ、マドロスさんばかりが悪いんじゃないのよ」
「無論、君にも責任があるよ、何というだらしないこった、歯痒《はがゆ》くってたまらない」
その時、号泣していたマドロ
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